=萩焼入門・web版=
萩茶碗の成り立ち
文:白田 豊

萩茶碗の成り立ち
萩茶碗の成り立ち

 千利休のあと茶の湯をリードした古田織部が萩焼の創世記に萩茶碗の様式の確立に大きな影響を与えたと、山口県立美術館副館長榎本徹さんは推論しています。
 千利休の没後、次の指導者を模索していた茶の湯の世界では、文禄・慶長のころになると古田織部が注目を集めはじめました。毛利輝元の養子、毛利秀元は、利休とは対極的な茶の湯を創造した古田織部と交流があり、古田織部の伏見邸の朝の茶会に招かれたり、名物の瓜や水指のふたを贈答しあうなど、深い交遊がありました。
 秀元は、若年にして、朝鮮の役、関ヶ原の陣にも輝元の名代として出陣し、文武の誉れも高く、毛利三将(元就・隆景・秀元)の一人として数えられ、茶道は古田織部に師事し、造詣も深く、萩焼に対する保護優遇にも意を注ぎ、藩窯の育成をはかりました。古萩の茶碗に見受けられる「織部好み」の様式は、この秀元の影響によるものといわれています。

古田織部

 古田織部は、1544年美濃国(岐阜県)に生まれ、土岐氏に属したが、のちに信長に仕えて旗本使番となりました。妻が中川清秀の妹であったのでその軍監として功があり、1585年従五位下織部正に任官され、山城国(京都府)、山城西岡城主として秀吉から三万五千石を賜りました。1598年名跡を実子の山城守重嗣に譲って隠居しました。関ヶ原役には東軍に属し家康から改めて七千石を給せられ、亡父の遺領三千石と合わせて一万石をもって養老の料としました。
 1614年大阪冬の陣に徳川方として出陣しましたが、末子九八郎重行が大阪城秀頼の小姓であったところから、豊臣方に内通し家老木村宗喜に二条城に放火させ五百騎をもって挟撃を策したという嫌疑により罰せられ、1615年6月11日伏見の自邸で切腹しました。
 古田織部は武人だったので戦場や旅の中での茶を考えたそうです。どこの山野でも、床をかざり、小さな掛け軸をかけ、一輪の花をいければ、茶席になる。その簡易な席で茶をいけました。いつ戦場の露と消える運命かも知れない武人であるが、常に茶の心を忘れない茶人でした。

織部の茶

 織部の茶風はその置かれた時代と地位から、利休の茶の収縮無味の内的志向に対して新しく造形された開放的色彩性をもち、自ら「はなやかにうるはしく晴れやかに静なるやう」(『茶譜』)と称し千利休とは、全く対照的な茶の湯を創造しました。古田織部は、利休最晩年の弟子であり、「利休七哲」のひとりにもあげられますが、織部の茶は、幕藩体制成立期ふさわしい身分秩序の厳然とした新しい茶の湯であったといわれています。
 織部の考案した相伴席付三畳台目は、好評となり武家社会はもちろん民間にも普及していきました。燕庵形式と呼ばれる型で、京都薮ノ内宗家燕庵にちなむ呼称で、織部の意図はほとんどこの中に盛り込まれているとされています。三畳の客畳に相伴畳が付くことで柔軟な機能性を得ることができたのがその特徴です。
 利休と織部の作風の違いとして利休は「渡を六ふん景気を四ふん」としたの対し、織部は「渡を四ふん景気を六ふん」としたとされます。「渡り」とは歩きやすさを指し、「景気」とは配置の美しさを指します。織部は露地に景を導入して二重露地や、視覚的効果、豊かな茶苑を意図し、石の並べ方や素材の組み合わせを工夫しました。
 織部灯篭はそうした工夫の中から生み出されたもので、灯篭を単なる照明装置としてではなく、景として役立せた。様式的な社寺灯篭と違う、露地に適した灯篭を作り出しました。これ以後、露地の構成には石灯篭は不可欠なものとなりました。

高麗茶碗

 一楽二萩三唐津と云われ、茶の湯で珍重されている萩焼は、安土桃山時代に千利休によって確立された「侘茶」の隆盛にともない、侘茶の茶碗として脚光を浴びた「高麗茶碗」の系譜をひきます。
 高麗茶碗とは、朝鮮半島で焼かれた茶碗の中から茶の湯のために見立てられたものです。高麗茶碗の制作年代はおよそ朝鮮王朝時代の16世紀が中心であるといわれていますが、17世紀以降、日本から注文された各種の茶碗も造られています。
 高麗茶碗の特徴としては、様式が多様であること、また多くの茶碗が高く位付けされ、一般的には日常接することが少なくなったことが特徴です。
 古雲鶴も含めて、井戸・三島・熊川(こもがえ)・堅手(かたて)・斗々屋(ととや)・伊羅保・粉引などの朝鮮茶碗を昔から高麗茶碗と呼んでいます。高麗時代の茶碗という意味ではなく、朝鮮のお茶碗という意味でこう呼ばれています。室町時代末期から桃山時代頃には、朝鮮のことを高麗と呼んでいたためと思われます。
 また、17世紀以降、日本から注文された各種の茶碗があり、その代表的なものは「御本」といわれています。御本とは、室町時代以降、朝鮮王朝との国交窓口であった対馬宗家が釜山の倭館内に開いた窯で焼いたやきもので、御本手によって造られたことから「御本」と呼ばれるようになりました。御本がいつ頃から造られるようになったかは定かではありませんが、江戸時代初期の寛永年間には始められたといわれています。しかし、御本にさきがけて日本の注文によって造られたと推察される数種の高麗茶碗があり、文禄・慶長の役によって国交が断絶された後再び国交回復がされた慶長14年ごろ、東莱近辺の窯で焼かれたようです。この高麗茶碗は御所丸、彫三島、伊羅保、金海などですが、それぞれの作行きには朝鮮半島の伝統的な作風ではなく、むしろ茶の湯の好みが色濃く反映されていました。

高麗茶碗の茶の湯との関わりと推定焼成年代

第1期:高麗後期から李朝前期(14世紀?16世紀)
雑器から茶の湯に合う物を見出したもので、茶人の好みは加わっていない。雲鶴・狂言袴・三島・刷毛目・粉引・井戸・堅手など。

第2期:天正年間から慶長年間(16世紀後期)
無作為であるが一見して新しいと思われる物や古作に準じて日本から注文したと推測される物。慶尚南道の窯で焼かれた物が多い。蕎麦・熊川(こもがい)・ととや・柿の蔕(かきのへた)など。

第3期:日本からの注文品
歪みのおもしろさを強調した作為的な物が多く、高麗茶碗本来の素朴な美しさはない。慶長年間に彫三島・御所丸・割高台・金海がはじまり、元和以降(17世紀中葉)に伊良保・御本が焼かれる。

高麗茶碗の種類
雲鶴
 茶碗の胴に雲と鶴の文様が象嵌されている一種の象嵌青磁。高麗時代末期から李朝前期にかけて焼かれていたようですが、確かな制作年代は不明です。雲鶴文に限らず、花文などもこの種に属します。
狂言袴
 雲鶴と同様の技法でおおきな丸文が胴に施されている筒茶碗を称します。丸文を狂言の袴の紋にたとえての呼称です。制作年代は詳らかになっていません。
三島・暦手
 李朝初期ごろから南朝鮮一帯で数多く焼かれていました。器表に印刻や篦彫りで文様を施し、白泥を刷毛塗りした後に釉を掛けたもので、文様の部分に白泥が入って文様を成し、鼠色の素地に白象嵌の文様を呈しています。このように釉下に白化粧を施す技法を総称して粉青沙器といい、三島はこの一種に属します。三島茶碗の様式によっては、暦手、礼賓三島、花三島、三作三島などの種類があります。
 三島という名称の由来については、その文様が三島大社の暦に似ているという説やかつて朝鮮半島を三島と呼んだという説など諸説あり、定かではありません。
刷毛目
 三島と同じ様式ですが、文様がなく白泥のみが刷毛塗りされています。鉄分の多い素地に白化粧を刷毛で施し、透明釉をかけているのが特徴です。
 刷毛目は三島と同様に朝鮮半島各地の窯で焼かれていましたが、伝世の茶碗の場合はおそらく慶尚南道の窯で焼かれたものと推察されます。
 また、刷毛目と同じ様式で、刷毛を用いず、白泥を浸け掛けしたものを無地三島といいます。すなわち、刷毛目のない刷毛目茶碗という意味で、三島や刷毛目と共に制作されていました。
粉引
 粉吹とも云い、釉調があたかも粉を吹いたような風情であることからその名称が付きました。土に鉄分が多く、黒いため、白く化粧掛けをして、その上に柔らかな透明釉をかけたものです。粉青沙器に類するものですが、三島や刷毛目とは様式が異なり、伝世する数も少なく、茶の湯の世界では特に珍重されています。
井戸
 井戸茶碗は、高麗茶碗を代表するもので、特に評価が高いのが特徴で、産地は慶尚南道です。井戸茶碗の種類として、大井戸、青井戸、小井戸(古井戸)、小貫入の4種類があります。見所として、竹の節高台、高台脇の力強い削りあと、ゆったりと胴にめぐるロクロ目、見込みの茶溜り、枇杷色に厚くかかった釉薬、高台付近のカイラギ(釉がちぢれた状態)などがあります。
 大井戸は、井戸茶碗の中でも大振りで、古来名物とされてきたものが多いことから名物手とも呼ばれています。
 青井戸は、釉色が青みを帯びているということですが、伝世の青井戸茶碗とされているの「柴田井戸」などは、必ずしも青味に焼き上がっておらず、朝顔形に開いた形状のものが特徴となっています。
 小井戸は、大井戸、青井戸のいずれにも属さない形状の井戸茶碗ですが、その中から特に貫入が細かく、滑らかなものを小貫入といわれています。小井戸の形状は一定しておらず、代表作には「老僧」「六地蔵」「忘水」などがあります。
 茶会記における井戸茶碗の初見は、天正6年のことで、以後天正年間を代表する武家、茶人の多くが井戸茶碗を所持していました。
蕎麦
 蕎麦と云う名称も諸説あり、釉中に蕎麦殻のような黒い粒が含まれているものがあるためともいい、また作行きが井戸に似ているということで「井戸のそば」という説もありますが、明らかではありません。
 蕎麦茶碗の形状は、ほぼ一定しており、高台から強く開いた平茶碗で、腰の部分に独特の膨らみがあります。腰を丸くふくらませ見込みには大きな鏡が付けられ、鏡のなかに目跡が残っているものがあります。
 釉色は枇杷色や青灰色で2色片身替わりのものが特に珍重されています。
堅手
 堅手とは、白磁の茶碗で、堅い質感から江戸時代中頃に茶人がつけた名称であると云われています。白磁は、粉青沙器とともに朝鮮王朝時代の陶磁器を代表するもので、伝世の堅手茶碗の制作年代はかなり幅が見られます。
 この堅手茶碗の中には使用過程でしみが生じたものがあり、茶人はそのしみを景色に見立て、「雨漏り」と称し、雨漏堅手と呼んでいます。
雨漏
 前述の雨漏堅手と同様に、使用過程でしみ(雨漏り)が生じた茶碗で、陶胎のものを雨漏茶碗といいますが、雨漏堅手との区別が難しいものもあります。
 したがって、雨漏りには堅手の他に、作行きに関係なく、白い釉膚に雨漏りのしみの出たものをいう場合があります。(粉引や柔らか手にしみのできたもの)
熊川
 熊川というう名称は、慶尚南道の港の名で、古くは日本と交易があった場所です。この港を経由して日本に渡ったのでこの名称がついたといわれますが、これも定かではありません。
 形状は、腰部が丸く、口辺が反った独特の形状で、見込みの中央に鏡といわれる丸いくぼみのある茶碗です。器形は、熊川形ともいわれ、和物茶碗に多く受け継がれています。
 種類は、真熊川、鬼熊川、紫熊川、後熊川など微妙な形状の違いでさまざまな呼び名がついています。制作年代は、ほぼ16世紀末期頃とされています。
斗々屋
(ととや)
 魚屋とも書きますが、名称の由来は定かではありません。この茶碗には見込みの深い本手斗々屋と平形の平斗々屋があります。
 本手斗々屋には枇杷色や青色を呈し、薄作りで淡柿色の釉がかけられた端正なものがあり、平斗々屋は釉が片身替わりになっているものが珍重されています。制作年代は、おそらく天正年間の初頭とみられています。
柿の蔕(へた)
 高台がやや高く、腰が張った独特の形状で、伏せた姿が柿の蔕に似ていることからその名称が付きました。
 柿の蔕茶碗の特徴は、形状もさることながら釉調がかなり薄い鉄銹色を呈していて、高麗茶碗のなかでももっとも侘た渋い作ぶりをしています。
呉器
 五器、御器とも書き、名称の由来は、禅寺で使う漆器の御器に似た形からきたといわれています。
 様式は多様で、真呉器、大徳寺呉器、紅葉呉器、遊撃呉器、尼呉器、番匠呉器、絵呉器などがあります。
 形状は、高台が高く、胴部は木椀形のものが多いのが特徴です。呉器もまた和物茶碗に影響を与えた茶碗です。
割高台
 割高台とは、広義には高台の高さをなす部分を一ケ所から四ケ所欠き割ったものをいいます。また狭義には高麗茶碗の一種をいいます。その高台の割り方によってさらにわけられ、割高台・切高台・十文字などの名称がつけられます。
 朝鮮半島では祭器に使われたものとされています。高台脇に箆を使ったり、あるいは胴をひずませたり、大きく高い高台を付けたりと、かなり自由奔放な作振りです。
 この種の茶碗は極めて少なく、特異な形状が珍重され、割高台の形状は後に和物茶碗によく用いられるようになりました。
御所丸
 慶長年間に日本からの注文によって作られたものといわれます。古田織部の切り形を手本にしたとされており、「古田高麗」が本とされており、非常に作為の強い茶碗です。
 大振りな高台を五角または六角にとり、こまかく面取り箆目をつけた腰まわり、口部のひねり返しなどに特徴があります。
金海
 慶尚南道にある地名からきた名称で、堅手・御所丸・金海手の茶碗を焼いていたといわれる。金海の茶碗はやはり日本からの注文によって焼かれたと思われ、堅手と同じく白磁の茶碗でふた手の物があります。
 ひとつは口を桃形や洲浜形に変化させたもので、丸い腰の下に大振りの高台をつけ、高台に切り込みを入れたりしている。もう一つのものは、小判形のいわゆる「ねこかき手」といわれるもので、胴に猫が爪でかいたような文様が施されている。
玉子手
 玉子の殻を見るような、淡い釉調によって名付けられた物らしい。形は熊川に似ているが、素地が薄く手取りが軽い。
伊羅保
 鉄分の多い小砂まじりの荒い土に、薄く釉薬がかかり、肌がいらいらとした趣なのでこの名が起こったといいます。
 片身替、釘彫伊羅保、黄伊羅保などがあり、片身替などは、朝鮮半島の伝統にはない作行きであり、日本からの注文と考えられます。慶尚南道の呉器の焼かれた窯に隣接する場所で焼かれていました。
御本
 いずれも日本から見本を送り、寛永年間末から寛文年間にかけて釜山近辺で焼いた高麗茶碗です。注文方法は、文字、絵、形、実物などを手本として、対馬藩に送られ、さらに対馬からそれぞれの注文先に贈答されたといいます。
 御本茶碗の作行きは極めて多様で、最も著名なものは御本立鶴茶碗です。
半使
 判司とも書き、作行きは御本に類似しており、区別不可能なものが多い茶碗です。
 半使が焼かれたとほぼ同時期に釜山窯でやかれたもので、朝鮮通信使が日本に来る際に同行の通訳が買い求め、日本にもたらしたものと云われています。
織部好みと萩焼

 利休から織部へと茶の湯の世界が変化する中で、織部は「見立て」という精神ではなく、より積極的な「注文」という行為を生み出しました。萩焼創業時の茶の湯の世界は、まさに古田織部の時代でした。
 萩焼の場合、萩藩主である毛利輝元やのちの初代長府藩主毛利秀元が個人的にも古田織部と親しかったこともあり、「織部好み」が萩焼に現れた一因であると考えられます。この萩焼の「織部好み」の様式を山口県立美術館副館長榎本徹さんの推論に添って紹介します。

割高台
(わりこうだい)
 高麗茶碗の割高台の特徴として、口辺になにかを割かいた跡があるものが多く残っています。小さい棒状の突起がつけられていたものと思われ、茶を飲むのに邪魔な為に割られたものと思われます。こうしてみると、もともと高麗茶碗は茶碗として作られたものではなく、他の用途として作られたものを流用した(茶碗として見立てた)と思われます。もともとは、祭器的なものであり、棒状の突起は、青銅器の爵につけられているようなものだったと思われます。
 高台を削ることについては、運搬する際に数碗を重ねて縄を掛けるのに便利なので起ったといういい伝えもありますが、定説ははっきりしていません。但し、藩が使うものと庶民が使うものとを分けるために庶民が使うものの高台を削って「キズもの」としたという説は、全くの俗説のようです。
 萩焼の割高台写しでは、十字に高台を割ったものは少なく、筆切を施したものや高台を3つに割ったものなどが見られます。萩焼の割高台写しで、薮内家の伝来の作品銘「是界坊」があり、薮内家初代剣仲が古田織部からゆずられたとの伝承があります。
彫三島
(ほりみしま)
 古来、檜垣の彫り文様の三島茶碗を称しましたが、近代にはまた朝鮮高麗末期より李朝初期にかけて焼成された三島手の一種で、胎土の表面に白化粧土を塗沫し、へらのようなもので文様を描き地土を表し、さらに上釉を施して焼成したものをもいいます。
 高麗茶碗の堀三島は、胴に檜垣文という2本の直線の中に斜線を配した文様を彫りつけ、そこに白土を埋め込んだ文様がある茶碗で、文様は非常に粗大放胆で双魚・木葉・唐草・蓮弁などを多く用いました。
 萩焼の彫三島は、沓形にゆがめられたものがほとんどであるといわれています。これは、織部のねらいをよく表現しているものとして位置付けられます。
伊羅保
(いらぼ)
 古くから高麗茶碗の一種に属するもので、中国製もまた南蛮物も混じっているといわれます。表情は、土の中の小石が火にはぜて釉が荒れ、手触りがいかにもいらいらしています。名称については、粗作で見た目にも手触りもいらいらまたはいぼいぼする感覚があるので、通俗に「伊羅保(いらぼ)」と呼び慣わしたものものではないかと云われています。
 種類は内刷毛片身替、釘彫、黄伊羅保に大別されますが、様々な様式がありひと括りにするのが難しい多様な表情を持っています。
 萩焼には、胴に彫りがめぐらせているものが多く見受けられますが釘彫伊羅保から来ていると思われます。萩焼には伊羅保写しと思われるものが多数見受けられ、萩から出雲に行き、出雲焼きの祖となった倉崎権兵衛が伊羅保に長じたことも萩焼と伊羅保の関連を物語ります。
御本立鶴
(ごほんたちづる)
 江戸時代中期に日本からの注文によって釜山の和館でやかれた茶碗を御本立鶴と呼びます。代表的なものが御本立鶴茶碗で、筒形の胴部に施された鶴の文様は、3代将軍徳川家光が細川三斎の長寿の祝いの際に描いた絵がそのもととなっています。筒形で口がやや外に反っているのが本歌の特徴とされています。
 御本は、織部御本、遠州御本などのほか、その土味によって砂御本と呼ばれるものがあります。また、その絵模様によって、立鶴、梅鉢、葵紋付などいろいろあります。表情は、おおむね白土に赤みを帯びた黄色の鼠がかった釉を施し、多くはこれに白釉、鉄、呉須などの絵模様があります。御本の土には、淡い紅梅のような赤味がぽつぽつと点在し、茶の緑色を引き立てるとしてこの赤味はことに喜ばれ、特にこのぽつぽつを御本(ごほん)と呼びます。
 萩焼では、立鶴茶碗が見受けられますが、口辺のつくりが本歌とはことなり、写しではなく、アレンジがなされています。
御所丸
(ごしょまる)
 茶碗の形、意匠の手本を朝鮮に送って作らせたものを御本茶碗といいますが、御所丸茶碗は、その最も早い例で、古田織部の意匠によって釜山に誓い金海の窯で焼かれたものをさします。
 御所丸という名は、古くから対鮮貿易の御用船につけられた名で、文禄・慶長役の(1592〜98)の際、島津義弘がこの手の茶碗を朝鮮で焼かせ、それを御所丸に託して秀吉に献上したという伝承から起ったと伝えられています。
 割高台とならんで古田織部の様式に直接結びつくのが御所丸茶碗です。これも高麗茶碗に属するもので、白釉のみのもと、白釉と黒釉が掛け分けられたものとの2種類があります。
 御所丸の萩焼は、黒刷毛目系のものは見られず、特徴は、高台に篦が使われ、不整形な高台作りをしており、桜高台とよばれています。
織部好みと萩焼の独自性

 古萩にみられる様式は、「織部好み」の影響が色濃く反映されていますが、時代の流行(織部好み)のもとに萩焼独自の展開が行われました。古萩の場合、織部好みのいずれも類似性は認められるものの、いわゆる「写し」とは違い、独特のアレンジが行われているのが大きな特徴となっています。
 また、時代の流れが織部から小堀遠州に移行し、西日本の朝鮮系窯業地で遠州様式が急速に広まる中でも、萩焼の場合は、大きな変化が見られないところが萩焼独特の造形意識が確立していることを裏付けています。


参考文献
●山口県埋蔵文化財調査報告第131集「萩焼古窯」〜発堀調査報告書〜発行/山口県教育委員会・日本工芸会山口支部●日本のやきもの6「萩」吉賀大眉著・発行/淡交社●萩焼やきものの町・橋詰隆康/三一書房●伝統工芸の現代化に関する社会学的研究・その2実態篇/羽田新・明治学院大学社会学部教授●萩焼四百年展図録・2001年/山口県立萩美術館・浦上記念館ほか●はぎやき展図録・1995年/山口県立美術館