萩焼入門第2部/作家名鑑 第4回
文:白田 豊
野 坂  和 左/NOSAKA KAZUSA

 現在、萩で活躍する作家の世代は四十代後半から五十代の年齢層がもっとも多く、現代の萩焼を支えている。その下の年代となると非常に少く、前号で掲載した大和猛、努兄弟ほか、数えるほどしかいないのが現状である。

 年代として空洞化しているのだが、次代の萩焼を背負う年齢層として注目されるとともに、これまでの作家の成長過程とはまったく異なる時代背景や環境に育った世代として興味深い年齢層である。

 昭和四十一年(一九六六)野坂康起の長男に生まれる。ものごころついた頃は萩焼が最も隆盛した時期であるが、やはり泥にまみれた生活は現代っ子にはかっこよく映らなかったようだ。

 「みんなから芸大、行くくんだろうとか、将来萩焼をやるんだろうなどと云われまして。必ず云われるんです。子どもの頃でしたから、ただ漠然とした反発みたいなものだったと思います。」青年期になり、将来の展望を真剣に考えるようになると、慣れ親しんだ環境に進むべく、高校の夏休みには東京の予備校でデッサンを習うなど美術大学受験のための準備を始めた。

 玉川大学文学部芸術学科で陶芸コースを専攻する。当時の陶芸コースは将来陶芸を本格的にめざそうという学生は少なかったそうだ。学内では切磋琢磨するといった雰囲気はあまりなく、カリキュラムをこなせばよいといった雰囲気の中で、思考は自然と学外へ向けられた。当時は現代陶芸の企画展が百貨店やギャラリーなど様々な所で企画されており、都内のギャラリーや美術館などをまわる時間が増えていった。

 平成三年(一九九三)玉川大学を卒業すると、「まだ釉薬の知識も少ないし、このまま帰っても何もできないんじゃないか」と大学時代には経験できなかったより専門的な研究をしようと京都市工業試験場に入る。一年時の本科では陶芸全般を基礎からもう一度たたき込まれ、二年時の専科では色の変化に興味を示し、釉薬を専攻する。

 萩で生まれ育ち、既存の一様な雰囲気では納得いかず、色の可能性を追求するために積極的に学んだ。

 平成五年(一九九三)京都市工業試験場を修了、帰郷し、父野坂康起に師事する。当時は「何をどうやっていいのか解らなかったですね。ペースがつかめなくて、窯ものの仕事をやりながら自分の制作をするといった感じでした。なんかあまり境目がないような感じで。」自分のスタイルも確立しておらず、方向性も未知の段階で窯の雰囲気にのまれた状態が続いた。

 その年の夏に玉川大学のOBによるグループ展が東京のギャラリーで行われ、出展する機会があった。ジョッキや花器などを出品したが、展示をみると自分の作品がみすぼらしく感じられ、「造っているときはまだ気がつかなかったんですけれど、ギャラリーに並ぶ自分の作品を見ると、本当に自分の造りたいものを造っているのか」と大きなショックを受けた。ひとりの作家として何故、土を使って表現するのか、自分は何を表現したいのかが重要であることを強く認識させられた。

彩泥皿

 平成七年(一九九四)西日本陶芸展に初入選、また山口県美術展に入選している。翌、平成八年父子展を開催、食器を主に出展し、自分なりのカラーを少しずつ表現する試みをはじめた。

 平成八年の十二月、山口県からの依頼で、萩市内に建設中の厚生年金施設のロビーの陶壁を制作することになった。幅六メートル、高さ四・二メートルの大きさで、二百数十枚もの陶板を配置するプランだ。

 幾何学模様は不可、萩のイメージを感じさせるものなど表現の制約が多く、技術的にも未知な分野である。しかし、デザインの構想を自宅のパソコンを駆使しておこすなど、現代っ子らしい仕事のプロセスと伝統的な素材や技法を重ね合わせて自分の表現を成立させようと思案している。

 「今は自分のカラーを掴むのが課題ですね」地域性や伝統のある窯元で制作することの意味などを、まったく新しい視点でつかみ取ることの出来る世代の一人として注目したい作家のひとりである。