|
文:白田 豊
|
|
![]() |
野 坂 康 起
NOSAKA KOHKI |
|
人との出会いはしばしば人生を大きく変えるものだ。野坂康起の人生もある人物との出会いにより、思わぬ方向に進んでいくこととになった。昭和六年(一九三一)三重県生まれ。庄屋の五男に生まれ、今のように職業が選べるような状況でもなく、漠然と建具屋か陶磁器の絵付師になろうと思っていた。 その頃に三重県窯業研修所ができ、陶磁器の絵付師を志し、陶画科を専攻する。この研修所で装飾技法を教えていた日根野作三との出会いが、その後の人生を大きく変えることになった。日根野作三は陶磁器のデザイナーで、全国の窯場をまわって名品などの意匠研究をし、美濃焼の隆盛におおきな役割を果たしたひとりとして名高い。 この研修所では、製図から磁器の絵付け、たたら作りなど基礎的な技術を修得し、美濃のタイル工場に就職した。やがてそこの社長の薦めで人間国宝、荒川豊蔵に師事、ここではじめて陶器と関わり始めるようになる。 はじめの頃は、土作りばかりをやらされ、窯詰めも今のような棚板に置くのではなく、全ててんびんに置いて焼いていたため非常に苦労したそうだ。「荒川先生は十時頃窯に来て庭木を剪定して、気が向いたら轆轤に向かい、茶碗を数点作っては、夕方頃になるとそれをひねりつぶして帰るといった毎日でしたね。とにかく今では考えられないような、野武士のような人でしたね。最近ではあのようなタイプの人はまずいないですね。」緻密な日根野作三と豪快な荒川豊蔵という両極端なタイプの二人におおきな影響を受けた。 美濃は当時、安物作りというレッテルをはられており、日根野作三は美濃焼の活性化のために美濃の有志を集め、民間の小谷陶磁器研究所を設立し、野坂康起もここに招かれる。この頃に鉄灰釉と出会い、伊羅保の技法に惹かれる。 後に「伊羅保の野坂」と異名をとるほどに伊羅保の技法を極めた野坂康起の出発点である。伊羅保は古くから高麗茶碗の中に挙げられるが、粗土で、土の中の小石が炎にはぜて釉が荒れ、手触りがいかにもいらいらまたはいぼいぼする感覚があるので、通称として伊羅保と呼び慣らしたといわれている。 独立を考え始めた頃、縁あって萩の野坂家に養子として入る。昭和三十三年(一九五八)、二十七才の時である。当時、窯には山縣麗秀らが職人として働いており、野坂康起は一職人として萩焼の基礎からの修行が始まった。その翌年義父が病で他界し、窯の当主となる。「父が亡くなり、野坂の窯がつぶれるなんて噂が流れて、職人がみんな離れるような状況でした。厳しい時代でしたね。」制作から行商までわき目もふらず働き続ける毎日が続いた。 「型物をやったりしましたが、粘土に合わなくて、もっと研究しなければいかんなぁと思いました。僕は感化を受けやすいタイプで、ものすごくのめり込むんですね、納得いくまでやりすぎてしまうところがあるんです。」美濃での経験を生かし、釉薬など様々な試みをするが、こんなものは萩焼じゃないなどと批判を受けることもしばしばあった。環境の違いや素材の違いに戸惑い、試行錯誤の連続であった。 美濃時代の関係から現代工芸美術家協会に属し、日展、日本新工芸展の審査員を勤めるなど吉賀大眉に次ぐポジションにまでなる。昭和四十六年(一九七一)山口県芸術文化振興奨励賞を受賞。 昭和五十六年(一九八一)、五十才を契機に日本工芸会に転向した。この年に日本伝統工芸展に初入選、三重県立美術館に買上収蔵された。公募展には、ほぼ一環して伊羅保による作品を出展し続け、ギリシャのコルフ東洋美術館、イタリアのヴィンドラミン・カレルジ宮殿、山口県立美術館、横浜そごう美術館などに収蔵され、萩を代表する作家のひとりとして海外からの評価も高い。 平成二年日本工芸会正会員となる。平成九年には伝統工芸新作展大賞を受賞。出品の萩伊羅保線文鉢はおおらかな造形と伊羅保特有の表情に御本がやさしく浮かびあがり、現代的な線刻がバランスよく施されている。
「これ(伊羅保)がなくなるとやはり淋しいでしょうね。どうしても一窯に数点は入れています。夢ですね。伊羅保に関わっていくことが自分らしいのかな。」自分の原点にしっかりと立脚した野坂康起の作品は夢と自信に溢れ、観る者をやさしく包み込むようだ。 |