萩焼入門第2部/作家名鑑 第4回
文:白田 豊
中 村  眞 一

NAKAMURA SHIN-ICHI


 昭和四十年代の全国的な陶芸ブームは萩焼に大きな影響を与え、萩市内および近郊に数々の窯元が誕生した。いわゆる新興窯と呼ばれるもので、中村真一もそのうちの一人である。当時、中村真一が開窯したのが四十番目くらいだったそうで、その一時期で窯元の数が八十数件にまで増えた。

 昭和二十二年(一九四七)、萩市内でガソリンスタンドを経営している家に生まれ、焼物とは直接縁のない環境に生まれ育った。幼少のころは現在のように萩焼屋も窯元も数少なく、特別に萩焼を意識して生活するといったことはなかったそうだ。

 親の経営するガソリンスタンドの跡取りとなるべく名城大学法学部に進んだのだが、大学では以前から興味のあった美術クラブに入部する。洋画に興味を示し、はじめは趣味の範囲で絵画と接したが、会派に所属しグループ展などを重ねるうちにのめり込んでいった。一時は美術大学へ編入しようとも考えたが親からの猛反対にあって断念した。

 大阪の石油会社に願書を出すが、どうしても自分の夢が捨てきれずに就職をせず、反対する親をなんとか説得、親も身近な焼物ならばと陶芸の道へ進むこととなった。

 昭和四十五年(一九七○)名城大学を卒業すると、岐阜県陶磁器試験場にて陶芸の基礎を学んだ。修了後、一年ほど多治見のタイル製造会社に就職する。食器の製造販売をおこなっており、そこで職人として働き、食器や花器などの制作に励んだ。

 当時はまわりに同年代の作家が多く、様々な作家と知り合い、現代工芸美術家協会の活動などにもに接したり、自分が独立して作家として生きていくための方向性を模索した。

 昭和四十八年(一九七三)父の薦めで帰郷、現在の萩市山田に開窯、独立した。陶磁器試験場や多治見の陶器屋で経験があるとはいえ、登り窯ははじめての経験で、失敗の連続だった。登り窯は、知識やノウハウが解っていてもその窯ごとに癖があり、温度の上昇や炎の走り具合など大きく異なる。また、気象条件などにも左右され、その日の温度や湿度などにより焼成経過を調整し、作家毎にめざす色合いを追求するもで、経験が非常に重要なのである。

 いろいろな窯を見学させてもらい、窯焚きのしかたなどを独学で学び、試行錯誤の日々が続いた。縁あって野坂康起と知り合い、交流が深まり、現代工芸美術家協会の入会も薦められた。多治見にいた時期も現代工芸美術家協会と接しており、その当時、将来は日展に出展して自分を試してみたいと思っていたそうだ。会派に所属することにより、様々なジャンルの作家と知り合い、交流をもって、刺激を受けたという。当初は多治見での経験を生かし、食器造りに専念した。多治見で培った表現方法と萩独特の表現を重ね合わせて自らの表現方法を探求した。

 独立から二年後の昭和五十年(一九七五)に九州山口陶磁展に入選、翌五十一年に日本現代工芸美術展、五十二年に日展にそれぞれ初入選する。その後も日展系の公募展を中心に応募を重ね、表現の方向性を探り、また存在をアピールすることに徹した。

弥生

 日展などの会派に所属し続けることのメリットやデメリットを悩んだが、その会に所属することに意味を求めるのではなく、その組織に於いて様々なつながりの中で刺激を求め、陶芸のみならず広く美術と関わっていきたいと現在でも現代工芸美術家協会に所属している。

 昭和五十五年(一九八○)東京の百貨店で初個展を開催、その後も各所で個展を重ね、昭和六十二年(一九八七)萩市教育文化奨励賞受賞、昭和六十三年山口県芸術文化振興奨励賞を受賞する。

 陶芸に関わりはじめて二十五年あまりが過ぎ、「萩焼のイメージに固執せず、最近はもう一度原点にもどって様々な可能性を試してみたい。」ブランドとしての萩焼ではなく、ひとつのやきものとして自由な表現、土、釉薬などの使い方も自分自身の固有の表現で以てうつわを表現したいと新たな目標に向けて意欲を燃やしている。