萩焼入門第2部/作家名鑑 第4回
文:白田 豊
玉 村  登 陽

TAMAMURA TOHYOH


 そもそも「作家」と「職人」という分類自体がおかしなもので、なにを以て作家であり、職人であるなどという定義はどこにもないのである。便宜上、個人的な表現を主体にした制作活動をしているタイプを作家としているようなもので、極めて曖昧なものである。

 萩焼を制作する人を作家と職人とういう、ふたつのタイプにあえて分類するとすれば、まぎれもなく「職人」に属するのが玉村登陽である。

 昭和十三年(一九三八)萩市に生まれる。少年時代は漁師に憧れ、中学校は水産を専攻する。父松月は一度は会社勤めをするが性に合わず、山縣麗秀に師事、その後野坂康起の窯や数件の窯で職人として従事していた。昭和二十七年に独立し、萩焼の窯元として八番目の窯元が誕生した。

 玉村登陽は、父の独立に際して否応なしに手伝いをさせられることになった。開窯の準備のため、中学三年の頃は学校に半分くらいしか通わず、窯の土台の基礎作りから煉瓦つくり、窯つきまで全てに携わった。土台の砂利や煉瓦の原土を人力車で運び、すべて自分たちの手作りの築窯であった。

 開窯の昭和二十七年、中学卒業と同時に父松月に師事し、作陶を始めた。「とにかく、ものを言わない親父じゃったです。次はなにをすればいいのかを常に考えて行動しないと怒鳴られました。」

 はじめの四年間は一切轆轤はさせてもらえず、ひたすら下拵えをしていた。粘土から薪から、窯の中の棚板などまでもすべて自分らの手で作った。親子の関係というなまやさしいものではなく、まさに主従関係の修行、職人そのものの生活だった。

 当時は戦後の復興期で金物がなく、陶器はよく売れた。ピーク時には年間十三回、少なくても十回は窯焚きをしていたそうだ。度重なる窯焚きのため、窯の痛みも激しく、二年間で三回ほど窯をつきかえた。

 三百六十五日、正月の朝半日を除いては一日も休まず、轆轤を引いては窯を焚き、合間に薪を割り、窯道具を作る作業が絶え間なく続いた。朝の五時頃から夜十一時くらいまで食事の時間を除いて工房から離れることはなかった。

 仕事が始まるの前に父が使う粘土の準備をし、父が次に何をやるかを常に見ながら、しかも自分の仕事も効率的にこなさなければならなかった。「はじめの頃は、形が悪いと作るはしから定規でペシャッとつぶされました。数ものの湯呑だったら一日に八百個は作りよったです。あの頃はとにかく無我夢中でしたが、辛くて辛くて何度も逃げだそうとしました。家を出ると云って親父とけんかしたりもしました。茶道具を作る勉強として茶道を習いました。お茶の時間だけが休める時間だった、唯一の楽しみでしたね。」

 昭和五十年(一九七九)独立、現在の萩市の西のはずれ、三見に松林庵窯を開窯、銀行から多額の借金をして工房を築いた。「借金を返すことが先決だったので、くる日もくる日もひたすら作り続けました。生活費をぎりぎりまで切り詰めて、今では誰も信じられないような話ですが、麦ご飯と一食分のおかずが女房と二人で梅干しひとつという日々が続きました。」

黒縁窯変鉢

 独立から四年後の昭和五十四年、まわりの薦めで公募展にはじめて出展、西部工芸展に入選した。翌年日本工芸界山口県支部に入会、その後も各公募展に出展入選を重ね、平成七年(一九九五)、日本陶芸展に初入選している。

 玉村登陽の工房は粘土のくずひとつ落ちていないほど掃除が行き届いている。これは、修業時代父からたたき込まれたことで、「土が稼いでくれる、土を無駄にするな。」という教訓だそうだ。削った粘土ひとかけらも無駄にせず、自分が稼ぐのではなく土や窯が稼いでくれるといいきかせて陶芸に携わっているのである。徹頭徹尾、職人に徹して無欲に土を愛し、窯を愛する玉村登陽のやきものは純粋で素朴な味わいの、ある意味ではまさに「萩焼らしい」やきものといえるのかもしれない。