萩焼入門第2部/作家名鑑 第3回
文:白田 豊
兼田 昌尚

KANETA MASANAO


 天寵山窯の七代目にあたる兼田昌尚は、昭和二十八年(一九五三)兼田三左衛門の長男に生まれる。昭和五十二年(一九七七)東京教育大学教育学部芸術学科彫塑専攻を卒業、筑波大学大学院芸術研究科彫塑を専攻。

 大学院に進んだ年に東京教育大学から筑波大学に名称が変わり、大学内のシステムや雰囲気が大きく変わった。新しく総合芸術科ができ、ビデオアートやミクストメディアなどが加わり、これまで感じたことのない刺激を受けたそうだ。

 大学時代から素材そのものの魅力に惹かれ、素材の質感を失わずに立体を構築する方法論を模索した。当時は、陶と木を組み合わせ、イメージからフォルムを決定するのではなく、素材の持つ力を自分の造形概念で引き出す論理を追求していた。ここに兼田昌尚の造形の原点がある。

 昭和五十四年(一九八一)大学院を修了するとすぐに帰郷し、作陶を始める。帰郷後、一年位は大学時代に制作していたような彫刻による作品を、窯の仕事をしながら平行して行い、国画会に出展していた。しかし、「焼物をやるにも彫刻をやるにもモノを作る根本は同じではないか」と感じ、とりあえず焼物の技術の習得に専念するべく、陶芸だけに集中するようになった。

 昭和五十六年頃から公募展に出展、日本伝統工芸展、日本陶芸展などで入賞を重ねた。昭和六十年(一九八五)に日本工芸会正会員となっている。しかし、この頃になると自分の求めている造形と公募展などに出展するために制作することのギャップを感じ始めた。

 この昭和から平成に変わる時期というのは、クレイワークや現代陶芸などと称して、陶芸が様々な広がりを見せ、各地で活発な動きがあった時期である。兼田昌尚もこれまでとは違ったスタンスで、自分の作品を発表できるのではないかと感じ始めた

 同時に自分の造形の幅が狭くなってしまうような限界を感じ、「もっと自由に素材と向き合い、純粋に素材を形に置き換えて」いた、大学時代に感じていたような自分の原点へ立ち戻ろうとした。

 身体の一部のように感じ、慣れ親しんできた轆轤にも造形の限界があるように感じ始める。この頃から、素材自体の魅力から形を生み出す方法を再度追求し、土の塊からの造形に着目する。土の塊をたたいたり押しつけたりして造形し、内側をくり貫く技法による「刳貫(くりぬき)」の作品が確立する。

 しかし、「僕は思ったことをスパッと切り替えて専念できるタイプじゃない。この頃も轆轤の仕事をしながら、刳貫の作品を手掛け、少しずつ(刳貫の)作品として成立してきたんです。」行きつ戻りつしながら、一つずつコンセプトを確立していった。疑問を感じて少し離れようと考えた轆轤も、この平行作業の時間の中で、その必然性を再度認識していたのだ。

 「これまでは、まず轆轤があって、轆轤によって形が成り立つと思っていたけれども、土と自分があって(自分の造形意志によって)轆轤を(道具として)使うことで、はじめて造形として成立できるのだと確信できるようになったんです。」刳貫による制作の論理が明確になると、轆轤の必然性も追って明確になっていった。従って刳貫をはじめ、轆轤による作品に至っても、思いつきやただのイメージだけではない、明確な論理と造形が成立し、揺るぎない力強さを感じることができるのである。

窯変刳貫茶碗
 平成三年に日本工芸会を退会、平成四年(一九九二)京都書院より「陶―vol.29 兼田昌尚」が刊行。彩陶庵にてその出版記念展を開催する。この頃に刳貫による作品がアートの視線で確立し得ることを実感として確信できたそうだ。

 また、平成七年(一九九五)ニューヨークのガース・クラークギャラリーにて刳貫の茶碗や水指を発表、同年に山口県立美術館にて「はぎやき展―破格と前衛の造形―」に出展する。翌八年(一九九六)東京国立近代美術館工芸館に刳貫花器が二点買上収蔵。パブリックコレクションは、横浜そごう美術館、山口県立美術館、そしてニューヨークのブルックリン美術館(陶子十号・美術館紹介参照)にも収蔵されており、海外からの評価も高い。

 最近では、より素材の魅力を引き出そうと器の概念や機能性だけにとらわれない造形も新たに試みるようになった。常に素材と向き合いながら、素材とともに自己の造形の論理を確立していく。今後さらにピュアな造形が生み出されることであろう。