萩焼入門第2部/作家名鑑 第3回
文:白田 豊
兼田 三左衛門

KANETA SANZAEMON


 萩市小畑地区は良質の磁土に恵まれ、藩制時代から藩の奨励策によって育てられた磁器窯がいくつかあった。「白焼(しらやき)」と呼ばれ、白磁による生活雑器を主に生産していた。この小畑磁土は、磁器の制作の他にも萩焼の原料として釉薬に混ぜたり、萩土に調合する他、化粧土としても使われていたようだ。現在はその発掘場所も湖底に沈み、発掘不可能になっている。

 この小畑の磁器窯の中には、当時百人を越す職人が働く窯もあり、製品を中国へ輸出するほど栄えていた。しかし、次第に有田や瀬戸など大量生産のものに追いつめられ、明治、大正から昭和にかけて、廃業や陶器に転向するに至った。現在、萩焼の窯元として残っている当時の磁器窯は、兼田窯、岡田窯そして、一時は廃絶していた吉賀窯の三ヶ所である。

 兼田天寵山窯は、肥前佐賀から移り住んだ陶工が、文政十三年(一八三○)に始めたとされる。毛利藩産物方の監督を受けて白磁を焼いていた。染め付けの磁器を生産し、明治時代には朝鮮に輸出するほど栄えていた。大正時代に入ると陶器の制作も平行して始めた。

 天寵山窯七代目にあたる兼田三左衛門は、大正九年(一九二○)萩市に生まれる。青年学校を卒業すると、家業の磁器の販売に携わる。萩市内の陶器屋を中心に、磁器の卸をしていた。しかし、前述のように有田や瀬戸の磁器が流通するようになり、昭和初期に萩焼の窯元へ転向する。

 萩焼の窯へ転向したのを機に、兼田天寵山窯、五代目にあたる伯父の兼田徳蔵の勧めで、三左衛門も制作に携わるようになった。昭和十五年(一九四○)、兼田徳蔵、職人の山県麗秀に師事、修業が始まった。土練りから始まり、今でこそ真空土練機を使用する窯がほとんどであるが、当時は手でこね、雪の降る日も足で踏み、水漿も柄杓で行う、文字通り土まみれの毎日であった。「手取り足取り教えてくれるわけじゃなかったですいね。見て(技術を)盗みましたいね。」と修業時代を語る。

 当時は磁器の窯を修理して、そのまま使っていた。長門市深川の古窯でも発掘されているような、十三連房式の大きな登り窯を改良して使用していたそうだ。修業に就いた翌年から、第二次世界大戦が始まり、二年ほど兵役に出る。この間は、職人も兵役に出され、父一人で窯を守った。終戦とともに窯に戻り、再び修業の毎日が始まった。

 三左衛門は制作の傍ら、自らも行商に出ており、主に煎茶器を背中に担いで、山陽線の夜行で出かけ、朝、岡山に着くと、茶道具屋などをまわり、売り歩いてはその日のうちに窯へ戻った。その後、昭和三十年後半から四十年前半にかけて萩焼の隆盛期には、焼けば焼くほど売れたという。ひたすら制作に追われ、窯を開けるとあっと言う間に無くなっていた状況が続いたという。

 昭和四十五年(一九七○)、山口県美術展に入選、この頃から公募展へ出展するようになる。以降、西部工芸展、九州山口陶磁展などで賞を重ね、昭和五十五年(一九八一)日本伝統工芸展に初入選する。昭和五十八年(一九八三)には萩市文化奨励賞を受賞、平成三年(一九九一)日本工芸会正会員となり、平成四年には萩市産業功労賞を受賞。

萩茶碗
 多くの職人が天寵山窯に弟子入り、三左衛門に師事し、独立している。「うれしいことですいね。僕も一生懸命教えて、みんなしっかりやっちょりますいね。」わが子を一人立ちさせるように、親身になって見守る。技術や作り手の気質を伝え、独立の手助けをしている。 

 公募展や個展など派手な活動はあまり行わず、まさに職人そのものといった存在である。「今でも納得できるものなんてできているわけじゃないです。今でも勉強だと思ってますいね。」作陶を始めた修業時代を常に念頭に置いて、寡黙に土と向き合ってる。