萩焼入門第2部/作家名鑑 第3回
文:白田 豊
大 和  努

YAMATO TSUTOMU



 明治二十五年(一八九五)、大和作太郎が開窯した「松緑窯」により始まった山口萩焼は、作太郎の息子、孫、曾孫らが独立して山口市に「大和一族」と呼ばれる同族による窯元の体制が確立した。大和姓の窯元はいずれも「松緑窯」と名付け、現在では十数件に達する。
 この大和一族の中でも若手に位置するのが、大和保男の長男である猛とその弟の努である。

 大和努は、昭和四十年(一九六五)大和保男の次男に生まれる。努も二歳上の兄、猛と同様に家業に対するコンプレックスや特別な感情を抱かずに、幼少期を過ごしたようだ。

 思春期になると土にまみれての生活には何となく嫌気がさし、陶芸から離れた人生を、一度は選ぶことになる。杏林大学社会学部に入学し、将来の人生設計を模索した。弟という立場も作用してか、自分が陶芸の道に進まなければいけないといった意識は全くなく、何か違う職業を見つけたいと思っていたそうだ。

 都会に憧れ、「とにかく上京したかった。東京で色々なものを見て、自分の可能性を見つけたかったのです。」と当時を語る。しかし間もなく、想像していた人生とのずれのようなものを感じ始めた。夏休みなどに帰郷した折、家業の手伝いをするうちに、土の魅力に惹かれていったのである。

 それまで、特に意識したことがなかった陶芸に将来を託そうと決意した。杏林大学を中退すると、実家から近くの山口芸術短期大学生活芸術学科に入学する。造形コースを選択し、美術全般を学び、専門の陶芸を選択する。クラブ活動も陶芸部に入部、自ら生活を陶芸一色に染めた。

 昭和六十三年(一九八八)卒業するとこの年に山口県美術展に初出展、初入選を果たす。平成元年(一九八九)日本伝統工芸展に初入選、西日本陶芸展、九州山口陶磁展など公募展へ積極的に出展を重ねた。「公募展は、一つの通過点であり、自分の作品を多くの人に観てもらい、評価してもらう機会として、積極的に出展をしました。」個展を開催できる段階ではない若い作家として、何を発言するよりも作品を観てもらい、認知してもらうことが何よりも効果的な手段であることを意識してのことであった。

 作品は、父保男から受け継いだ塩釉を用い、化粧掛けで箔を圧したうな表情の「粉引箔」による作品に力を入れる。「素材自体は非常に伝統的なものを使っているので、形を特に意識して現代的なものを作りたいと思っています。」というように、面と線を強調した花器や陶筥は、素材と釉の柔らかな表情とシャープな造形の対比が印象的である。

炎彩粉引流扁花器

 平成五年(一九九三)二十八歳の若さで日本工芸会正会員となる。在、日本工芸会山口支部では、大和努が最年少の正会員である。この年にロンドンの大英博物館に作品が買上収蔵されている。また、平成八年(一九九六)初めての個展を地元の山口市で開催する。

 最近は、順調に賞を重ねてきた公募展への考え方も少し変わってきた。気持ちに少し余裕ができ、これまでは、無理にでも作品を選んで出展していたが、これからは、じっくり自分の作品と向き合って発表するスタンスを確立し得る段階にきているようだ。

 しかし、これとは逆に、何か壁のようなものも感じはじめたという。
 「まだ三十そこそこだし、四十歳くらいまでは、いろいろな試みをして、それから自分の道を固めればいいんじゃないかと思います。もっと遊びたいですね。いろんなことを試してみたいです。今しかできないことを思いっきりやりたいですね。大和(家)みんないますから、一人ぐらいは変わったことやってもいいんじゃないかと。」

 様々な技法や造形を試みたい欲求と、ある程度確立しつつある自分のスタイルに対するジレンマを感じはじめた。

 これから様々な経験や考察を重ね、自分のスタイルをどのようにも変えていける、若さと柔軟性を備えている世代に位置する作家の一人である。