萩焼入門第2部/作家名鑑 第3回
文:白田 豊
大 和  保 男 YAMATO YASUO

 萩焼の創世からおよそ三○○年後、明治二十五年(一八九五)に大和保男の祖父にあたる大和作太郎が山口市に創業した「松緑窯」によって、現在の「山口萩焼」と呼ばれる萩焼の新たな歴史がスタートした。

 大和作太郎は安政二年(一八五五)大和屋弥五郎の長男として萩市呉服町に生まれる。大和屋家は代々呉服商を営んでいた旧家であった。十一代にあたる弥五郎は、手先が器用であったことから家業の呉服商のかたわら小畑の泉流山窯に陶工として従事していた。父の影響から、作太郎も陶工として三輪窯へ弟子入りをした。三輪窯八代雪山の時代である。

 明治十四年(一八八一)東光寺焼が創業された時、雪山の推奨により、その職長となっている。東光寺窯は明治二十年(一八八七)に廃窯に至るが、それを機に作太郎は呉服町の住居地に小さな窯を築き大和松緑と号して独立、松緑窯と名付けた。

 しかし、この松緑窯もわずか三年で廃業に至り、山口市へ移住、山口町の萬代彦七が創業した「山口焼」の職長として招かれた。この山口焼は「萬代焼」とも称され、萩焼に近いものから絵付の陶磁器に至るまで様々なものを焼いていたという。作太郎は、この萬代焼の職長を二年で辞し、現在の山口市宮野大山路にて再度「松緑窯」を開窯、明治二十五年(一八九五)山口萩焼の歴史が始まった。

 大和保男は昭和八年(一九三三)大和作太郎の次男春信松緑の次男として生まれる。松緑窯開窯からおよそ四十年がたち、窯の経営も安定した時期であったという。保男が小学校にあがる頃になると、第二次世界大戦の影響を強く受けた。窯の職人が召集を受けたり、戦後の動乱で窯の経営も窮地に立たされた。保男が小学校四年の頃、職人が一人もいなくなり、陶工として窯の仕事を手伝うようになった。保男はもともと工作が好きで、手先が器用ということもあり、職人としての仕事は苦にならず、中学にあがる頃には一人前の職人の域に達していたという。

 しかし、青年期を向かえると次第に美術への関心が高まると同時に、職人に対するコンプレックスを強く感じるようになり、現在のような「作品」の制作を試みるようになった。昼は職人として窯物に従事し、夜に自分の作品の制作に明け暮れた。元来ものを作ることが好きな保男には、土と向き合っている時間は全く苦にならなかったようだ。

 昭和二十六年(一九五一)頃、縁あって、京都の臨済宗東福寺に二年間住み込んで京都の陶芸家や画家などを訪問し、鈴木治や八木一夫などの窯で、様々な技法を習ったり、新たな表現の方向性を模索をした。帰郷して自らの表現方法を探り、塩釉(しおくすり)の技法を生みだし、独自の表現を獲得した。塩水を生地に筆で塗り、炎のような麗美な色彩と素地の柔らかさとが相まって独特の輝きを放つ作品である。

 昭和三十四年(一九五九)光風会展工芸賞を受賞がデビュー、以後展、現代工芸展を中心に新しい造形を主軸とした陶との関わりが深まった。しかし、昭和四十年頃になると、これまで反発として捉えていた伝統や茶陶としての萩焼を、新たな視点で取り組むべく、日本伝統工芸展への出展に転向するようになった。昭和四十八年(一九七三)山口県芸術文化振興奨励賞を受賞。昭和五十年日本伝統工芸展に初入選、この頃から塩釉で箔を圧したような表現の「炎箔(えんぱく)」という技法が確立した。

 昭和五十四年(一九七九)日本工芸会正会員になる。この年に山口県美術館のエントランスホールに幅二十七メートル、高さ三メートルほどの陶壁「山・海・空」を完成させている。                 
  昭和六十三年(一九八八)山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定、た日本工芸会の理事および日本工芸会山口支部幹事長に任命され、日本工芸会山口支部の実質的な最高責任者となった。平成元年(一九八九)、芸術文化功労山口県選賞を受賞している。

萩茶碗

 平成七年(一九九三)京都市臨済宗の東福寺管長より「通玄(つん)」という号を命名される。作陶五十年、還暦も過ぎ、「これからは現在の様々な肩書きから離れ、天職といえる陶芸に総てを注ぎ、新たなる造形を生み出したい。」と、更なる境地へ達成するべく意欲は、留まるところを知らない。