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明暦三年(一六五七年)に深川萩、三ノ瀬焼物所が創設された時、三ノ瀬焼物所惣都合〆に任命された山村平四郎光俊家の弟子たちのほとんどが、萩の松本から深川に移住して、焼物所の職人として勤めている。このうちの一人、赤川助左衛門の系譜が、現在十三代に至る田原陶兵衛である。
この赤川家は、毛利輝元が関ヶ原の戦いで敗れ、広島から萩に移城されたときに、輝元と共に萩へ移っている。広島に赤川という場所があり、毛利家の家来にも赤川という大身の家があった。九代目にあたる一八二○年頃に赤川姓から田原姓に改姓している。
昭和二十六年(一九五一年)長門市、十二代陶兵衛の長男として生まれる。昭和四十八年、武蔵野美術大学工芸工業デザイン科を卒業すると同大学院に進む。
大学時代に九州の窯元をめぐって唐津の中里重利に魅せられ、大学院を修了するとすぐに中里重利に師事、約二年程修行をしており、この期間は陶兵衛にとって非常に貴重な経験となった。
当時、中里重利が独立して間もない頃で、設備を拡大している真最中であり、新しい仕事場などを作るための基礎工事や壁塗りなど、およそ通常の窯元の修行とはかけ離れた経験は、若い陶兵衛にとって視野を広めるよい機会であった。
それまでやきものを見るとき、常に父の作品との比較でしか作品の判断をし得なかった。幼い頃から自然に目に触れてきた父の作品の形や色、その良し悪しのみが自分の目の基準となっていた。大家の作品などを見ても、父ならこうするだろうという、モノを造ることの全てが父親の存在と重なっていたのだった。
中里重利の窯元での経験が客観的に意識できるひとつの機会となったという。ここでの経験が、作品を鑑賞する事と実際に自分で作品を造る事のギャップを改めて認識させられた。
昭和五十二年、帰郷し独自の制作に打ち込む。昭和六十年に初めての個展を開催。「十二代の影に隠れて様々な方向性を模索している最中であり、自分という存在を全く客観的に捉えられていなかった。」何かを作ろう、何かをしようという時の判断基準に常に父親の存在が強く意識として表れ、独自の表現を掴み取るまでには達していなかったようだ。
平成二年日本伝統工芸展に初入選、その翌年に父が他界している。平成四年に十三代陶兵衛を襲名、翌五年に日本工芸会の正会員となっている。
十三代に襲名すると襲名記念展に追われ、「襲名したからここまでできなきゃいけない」といった個人としてのプレッシャーなど感じる余裕はなかった。永い伝統を経て現在に至る窯元の当主として、自己の確立というよりもむしろ窯元の運営、これまで支えてきた祖先への敬いなど、その田原窯の精神性を伝承する立場の責任という意識が先に立ち、重くのしかかった。
萩茶碗
「強く自己表現を主張するのはあまり得意な方じゃないですから。」と語る。「茶道の心の原点は人をもてなす心、相手を敬う心」という精神性が陶兵衛の茶陶造りの原点となっている。「食器の中でもこれだけ大切に扱ってもらえるうつわは他にはないでしょう。両手で持ってそっと口につけて。だから手に持った時の量感、質感、口触りなどを充実させたい。やはり使う側を念頭に置いて、現代の茶道の流れにも則した形や色を作り上げたい。」常に相手を認識して創造し、そこに創造の精神性をさりげなく、押しつけずに表現することが陶兵衛茶碗の原点となっている。
ただ色や形、技法などを従来と変えるのではなく、なぜ萩焼が茶陶として永く珍重されているのか、その歴史や伝統、日本古来からの文化の本質を抜きには陶兵衛の茶陶は存在しないのである。それらが自然に表出できるようになった時、新たな伝統が創造される。
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