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三ノ瀬焼物所創設時、萩の松本から深川に移住した職人の一人、赤川助右衛門の系譜が現在十四代に至る新庄貞嗣である。この家系は十一代の時に赤川姓から新庄姓に改姓している。
昭和二十五年、十三代寒山の長男として生まれる。父である十三代寒山は、貞嗣が高校三年の時に急逝した。伝統の窯元としては、すぐにでも後を嗣がなければいけない立場ではあるのだが、当時、焼物に対するビジョンも何もなく、「このまますぐに仕事についてもろくなものができないだろう」と進学を決意した。貞嗣が帰郷するまでの間、母が伝統の窯元を守り続けたのである。
高校生の頃、宇部市野外彫刻展や福岡市でロダンの展覧会が大々的に行われた時代で、西洋美術への憧れもあり彫刻に惹かれた。昭和五十年東京芸術大学彫刻科を卒業、同大学院の彫刻を専攻する。
大学院を修了後、京都市工業試験場にて陶芸の基礎を修得する。一年間という短い期間であったが、焼物の経験のない貞嗣にとって、他の地域の焼物に実体験として接する唯一の機会であったし、釉薬などをじっくり研究する絶好の機会となった。昭和五十三年、帰郷、本格的な作陶が始まった。父が他界してからちょうど十年目に窯元の当主がようやく復活したのである。
貞嗣が帰郷した当時、萩焼古窯の発掘調査が続いていた。発掘された古い萩焼には、現在使われていない土や釉薬もあり、現在の一般的な萩焼のイメージとは異なるものであった。形骸化された萩焼のイメージを踏襲する必要がないことを改めて認識させられたという。貞嗣の萩焼との係わりの出発点がここにある。
また、陶芸に於いて師を持たない貞嗣にとって自分の方向性を探る手段として山口県美展、西部工芸展、日本伝統工芸展、日本陶芸展など公募展へ積極的に出品した。多くの人たちに作品を見てもらえる機会と自分の作品を客観的に見ることにより、独自の制作、表現方法の模索をしたのである。
昭和五十八年、日本工芸会正会員となる。また、この年に陶で立体を構成する様々な方向性を模索しようと、山口市防長青年館の陶壁を制作している。その後も平成三年山口県社会福祉会館、平成七年広島市おおうちビルの陶壁を制作。
土という素材の持つ制約を建築空間の中で如何に自分の表現に結び付けるかを掴み取ろうとしているのである。「特に最初の時は、技術も何もなく試行錯誤の繰り返しでした。期限は決まっているし、土そのものの制約などをどう解決するかに悩みました。」ひとつの方向にとらわれず、新たな視点を捉えるようとするひとつの手段として、陶壁の制作は機会があれば、今後も続けていきたいという。
萩灰被陶筥
代表作に灰被陶筥がある。土の塊をたたき締めて造形、灰被りによる力強い表情の作品だが、「土の塊そのものを炎の一番強いところで焼いたらどうなるだろうか」という素材と焼成の関係を確認することが、この仕事の出発であった。次第にその塊を二つに割り、中をくり貫いて、陶筥という形態に至ったのである。
形態としては一見すると彫刻的な発想の作品のように見えるが、そこには現代の陶芸において欠かす事のできない重要な要素をふまえている。素材の持つ特性や制約、焼成の客観的観察など制作の課程を造形以前の段階から認識し、独自の造形に結び付けようとしたのである。
四百年あまりの歴史や伝統を根底にふまえながら、現代に通ずる新たな表情を生みだそうとしている。「特に色ということであれば、現在萩で使われている釉薬なんかは、長い歴史の中でそれほど変化してない、非常にプリミティブなものです。そこで、今僕が何か添加物をいれて表情を変えようとかはほとんどなくて、これまで使われてきた原料なんかでも今に通じる表現の方向性というのはあると思っています。」このように新庄貞嗣は、伝統の技法や素材を通して、独自の表現方法を創造しているのである。
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