萩焼入門第2部/作家名鑑 第2回
文:白田 豊
坂田 慶造

SAKATA KEIZOU


 坂田窯は山村平四郎光俊の家系、六代目にあたる坂倉五郎左衛門の息子、善兵衛が坂田姓に改姓し、現在に至る。坂倉、新庄、田原とともに三ノ瀬焼物所の陶工の家系、長門市深川に窯を持つ伝統の窯元である。深川萩は永くこの隣接した四つの窯元で歴史を歩んできた。

 昭和二十四年、十三代坂田泥華の長男に生まれる。坂倉新兵衛、新庄貞嗣、田原陶兵衛、坂田慶造の四人は幼友達であり、年齢も一・二才の差と近く、幼い頃から常に刺激し合って育ってきた。家業や伝統といった特別な意識は、幼い頃のこうした環境によって薄れ、ごくあたりまえの自然な環境として、あえて意識するものではなくなっていたようだ。

 日本大学芸術学部彫刻科に入学、当時は学園紛争の真最中であり、大学は完全に封鎖状態であった。裏門をよじ登って教室に入り、騒然とした状態の中で講義が続いた。昭和四十七年に卒業、自分の足下を見つめ直そうと、アメリカへ渡り彫刻の勉強をする。異なる文化や風習を直に感じ、日本の文化などを客観的に見ようと試みた。それまで特に意識をすることなく生活してきたことを、違う状況の中で検証できたという。

 さらにヨーロッパなど他の国への留学も考えていたが、父泥華が体調を崩したこともあり、昭和四十九年に帰郷、家業に就いた。

 それまで轆轤などもろくに触ったことがなく、一年間はとにかく基礎の習得にひたすら時間を費やした。技術の習得は、独自の表現を生み出す為の一つの方法論として、蹴轆轤など伝統的な技法を集中的にたたき込んだ。技法や道具をモノを作る行程として確実に自分の体に認識させるために基礎技術に集中した。

 また、長く勉強した彫刻の概念がつきまとい、土で造形すること、つまり造形の思考が全く正反対であることにギャップを感じ、苦労したそうだ。技術の習得を通じて陶芸の本質をひとつひとつ整理していき、自分の中のギャップを埋めていった。

 従来の萩焼にない表情の作品を作り出そうと、試行錯誤の末生まれた独自の技法が現在も力を入れている「剥離窯変」である。焼成した後に釉薬を剥がし取り、素焼きの焼締めようなザラッとした表情をした独特の風合いを持った作品である。

 昭和五十三年、日本工芸会山口支部展に「剥離窯変花器」を出品、朝日新聞社奨励賞を受賞する。初期の頃は釉薬がうまく剥がれなかったり、窯変が思うように表現できなかったりと技術的な試行錯誤を繰り返した。

 その後も日本伝統工芸展に出品を続け、昭和五十五年に初入選、平成元年に日本工芸会正会員となっている。

 平成六年頃から剥離窯変による茶碗を発表する。技術的なレベルが納得いくようになり、茶碗の表現としても応用できるようになったそうだ。表現として納得のいくような技術の習得に約十六年を費やしているわけだ。納得のいくまでじっくりと正面から立ち向かう、慶造のもの作りとしてのポリシーである。

剥離窯変茶碗

 剥離窯変の作品は、表情としては従来の萩焼とはかけ離れているが、その茶碗の持つ質感やイメージは萩焼の伝統的な要素を意識している。「手にとってお茶を点てて飲んで、はじめて器なんですよね」特に使い手を意識するというのではなく、使う場所やシチュエーションを想定した器でないと器の本質とずれてしまうという。「形もシンプルつくりのものが多く、器として造形の前提を『使うもの』としてフォルムを決定することが多いんです。」特に意識することなく、おのずとシンプルな形になってくるのだそうだ。

 「新たな技法や表現と陶芸の本質や伝統を結びつけたものを作りたいですね。そういう気持ちは常に持っているんですけど。」

 坂田慶造の陶芸は、形や色の意識というよりも器のもっている性質にこだわり、その本質に迫ることが原点となっている。