萩焼入門第2部/作家名鑑 第2回

文:白田 豊

坂倉 新兵衛

SAKAKURA SHINBEE


 深川焼の起こりは、それまで藩の管理下にあった御用窯としての存在に新たな性質を生み出した。

 一六○○年はじめ頃に毛利輝元によって、李朝から連れられた二人の陶工により、萩焼が創世された。この二人の陶工のうち李敬は前号で記述した坂高麗左衛門、もう一人の李勺光の系譜が、現在十五代に至る坂倉新兵衛である。

 李勺光の家系の三代目にあたる山村平四郎光俊が中心となり深川、現在の長門市三ノ瀬に「三ノ瀬焼物所」を創設し、山村平四郎光俊が三之瀬焼物所惣都合〆に任命され、明暦三年(一六五七年)に深川萩がスタートした。この深川御用窯は、松本御用窯と同じく藩の御蔵元の直轄であったが、深川では、はじめから自家営業としての販売が認められ、半官半民的な性格であり、従来の御用窯とは異なるスタイルの御用窯が誕生したのである。

 さらにそれから約四十年後の元禄六年(一六九三年)には、それまでの御蔵元の直轄支配を離れて、地方庄屋の支配に変わり、民窯としての性格がさらに強くなった。

 十五代坂倉新兵衛(本名正治)は、昭和二十四年に十四代新兵衛の長男として生まれる。昭和四十七年、東京芸術大学美術学部彫刻科を卒業すると同大学院では陶芸を専攻した。

 四十九年に大学院を修了すると、父十四代新兵衛が体調を崩した為、アメリカやヨーロッパへの留学をあきらめ、やむなく帰郷する。帰郷当時、父は入退院を繰り返す生活を送っており、翌年に亡くなっている。

 父親から学んだ期間は実質、半年程と短く師事などという感覚ではなかった。若干二十六歳の青年が伝統の窯の当主となったわけである。

 当時は当主としてのプレッシャーよりも、窯の経営、維持をどうすればよいかといった直面した問題への不安感のほうが強かった。「とにかくやるしかない」という、作家としての制作の方向性などといった選択肢は存在しなかったのである。

 帰郷後三年目の昭和五十三年に日本伝統工芸展に初入選、またこの年に十五代新兵衛を襲名している。襲名当時は、名前が一人歩きしているような感覚が強く、「新兵衛」であるからこうしなければいけないといった気概はむしろ少なかった。若干二十九才の青年にとって「新兵衛」の名前は、まるで他人の名前を呼ばれているような感覚であったという。

 「自分の窯の伝統というよりもむしろ長い歴史を経て現在に至っている萩焼の歴史を衰退させたり、絶やしてはいけない」という、萩焼全体としての伝統を改めて認識させられたようだ。これは、祖父にあたる十二代の残した功績が大きく影響している。

 十二代新兵衛は、萩焼の中興の祖とあがめられる存在。萩焼全体が苦境した時代に、茶陶としての格式を高めるため、表千家で茶の道と道具を学び、表千家との深い繋がりを持った。また、山口県知事より「萩焼陶器販路調査嘱託」の肩書きを得て、全国を市場調査したり個展などを展開して、萩焼の知名度を上げるとともに、販路を拡大していった。十二代新兵衛は、現在に至る萩焼の隆盛を導いた重要な存在であった。

 様々な不安を抱えながらのスタートであった十五代新兵衛も昭和五十六年から日本伝統工芸展に連続入選、五十九年に日本工芸会の正会員となり、昭和六十三年長門市芸術文化奨励賞、翌平成元年に山口県芸術文化振興奨励賞を受賞している。

萩茶碗

 自分のスタンスが徐々に捉えられてきたのは日本工芸会の正会員になった頃、帰郷してからちょうど十年くらいだったと語る。十二代が築き上げた「新兵衛茶碗」の精神性を実感として認識できるようになり、作品に力強さが現れてきた。 十五代新兵衛の感じる「伝統」とは、萩焼の歴史や将来性など総てに対しての責任感や精神性に尽きるという。これらの精神性を伝承する責任感として、現代を生きる十五代としての新兵衛茶碗の制作に打ち込み、新たな伝統の創造を目指している。