萩焼入門第2部/作家名鑑 第2回
文:白田 豊
大野 孝晴

OHNO TAKAHARU


 昭和十五年山口県大津郡、大野瑞峰の長男に生まれる。父瑞峰は、京都に生まれ、京都市商工省陶磁器試験所で細工物の職工として勤めた後、日立製作所・日立研究所、高級美術大甕陶苑の主任陶芸員を勤めた。

 日立製作所を退職すると、何とか金を工面して山口県大津郡の自宅裏に念願の登窯を築くが、窯焚き時の煙がものすごく、近所との都合により、一度限りの窯焚きで中止することになった。

 しかし焼物への想いは捨てきれず、昭和二十四年から四十年まで十六年もの間深川の坂田窯、新庄窯、坂倉窯などの陶工として勤め、細工物や窯物の制作を続けた。窯元では、昼に窯の職人として勤め上げ、夜に窯場の一角を借りて自分の作品の制作をするという、まさに焼物一筋の日々を送っていた。当時、孝晴は小学校の高学年で、日曜日に窯元へ遊びに行き、父と対面するのが楽しみであったという。

 瑞峰はやがて細工物の作者として名を高め、萩の窯元からも細工物の制作以来があったほどである。昭和四十年に深川の窯元を辞め、再度独立を試みる。

 もともと窯元の育ちではない孝晴は、陶芸をしようとは夢にも思わなかったという。昭和三十九年法政大学経済学部を卒業、日本坩堝株式会社に入社、東京や大阪で営業を担当するが、サラリーマン生活にどうしてもなじめなかった。ちょうどその時に父の瑞峰が独立を決意した時であり、父瑞峰の陶芸に対する志にうたれ、協力する決意をする。昭和四十年夏に帰郷して、父に師事、孝晴も陶芸を志すのである。

 当時、萩焼の窯元として初めて電気窯を導入、萩焼では電気窯第一号として、新聞などマスコミも大々的に取り上げ、脚光を浴びた。多くの作家が電気窯を見学に来たそうだ。

 この電気窯の導入は孝晴が日本坩堝の大阪支店勤務の時に、当時京都の窯業界において開発された電気窯に接する機会があった。萩の土を持っていき、焼成の実験をするなど、父の独立のための下準備をしていたのである。電気窯でも十分登窯に対抗できる作品ができると確信して、導入に踏み切ったのである。狭い場所で焼成時間も短く済み、燃料や人件費などのコストも抑えられ、薪の燃料との併用で従来の萩焼の風合いを出すこともできるなど利点があった。

 伝統もなにもない窯元として、生活ができるかどうかという不安を抱えながら父と子二人だけの、文字通りゼロからのスタートであった。

 作品を背中に背負い、汽車に乗って萩の卸屋に持っていったり、まず販路を確保することが必要だった。いわゆる新興窯のはしりの時代である。やがて、全国的な陶芸ブームに支えられ経営面は順調に推移した。昭和四十年後半になると、名古屋や京都の卸問屋との取引きも始まり、販路の確立は安定した。

 昭和四十七年窯を移転、次男の誠二も加わり、念願の登窯を築窯して現在に至る。孝晴はこの年に日本伝統工芸展に初入選、昭和五十七年に日本工芸会正会員となる。

 昭和五十三年に東京の百貨店で父子展として、初の展覧会を経験する。その後も父子展をコンスタントに展開、まさに二人三脚の瑞峰窯の歴史である。

萩刻線文窯変壺

 「伝統も何もないから、かえって気が楽なんです。これをやっちゃいかんとか、こうじゃなくっちゃいかんとか、そういう声とは無縁ですから。伝統の窯と同じ事をしてもかなうはずがない。新しいものを創造することを常に念頭においています。」化粧掛に削文や線状文を入れ、全体の表情を引き締める作品に力を入れる。

 父は平成三年に体調を崩し、現在は入院生活を送っている。瑞峰窯二代目の当主として父の意志を受け継ぎ、肩肘を張らず、萩焼の歴史や伝統を客観的に見据えて制作に取り組んでいる。