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萩焼の起源は周知の如く、毛利輝元が朝鮮より連れてきた二人の陶工によって始まった。萩に入府した輝元と共に二人の陶工、李勺光、李兄も萩に移ったのが一六〇四年。中之倉に御用焼物所が開設、ここから萩焼の歴史が始まった訳だが、この二人の陶工のうち李敬の系譜が、現在十二代に至る坂家である(詳しくは陶子七号・萩焼入門第一部を参照)。
宗家である坂窯の十二代坂高麗左衛門は、異色の存在である。昭和二十四年、東京都新宿区に生まれ、本名は達雄。中学時代に芸大美術講師からデッサンを習うなど、美術に興味を示し、昭和四十六年、日本画家横山操に憧れて多摩美術大学に入学。加藤又造らに学ぶが学園紛争や師である横山操の他界に目標を失い、やむなく中退する。翌四十七年に東京芸術大学日本画科に入学する。
昭和五十三年に同大学院絵画科を修了すると、研究室に残り、平安、鎌倉の仏画や絵巻物、西域壁画などの模写に取り組んだ。五十四年には、京都の観心寺如意輪観音像(国宝)の復元、彩色に参加している。また、この年にフレスコ壁画の研究で、初めて萩を訪れているが、萩焼への関心は全くなく、みやげもの屋に並んでいる萩焼を見て「なんて特色のない焼物なんだ」という印象しか持たなかったという。
陶芸とはほど遠い人生を送ってきた訳だが、縁あって、十一代坂高麗左衛門の息女、素子と出会い、陶芸の道へ踏み込むこととなった。昭和五十七年、坂素子と結婚、養子となる。京都に移り住み、京都工業試験場窯業科にて陶芸の基礎を学び、五十九年、萩での本格的な作陶が始まった。
先代の十一代は昭和五十六年に他界しており、先代からの教えがある訳でもなく、幼い頃から窯の仕事を見て育った訳でもない、まして宗家としての重圧は並大抵のものではない。自分の責務が見当のつかぬまま、試行錯誤が始まった。長く日本画を学んできて陶器に転向したからといって、いきなり自分が培ってきたものを全てゼロにして人生を送ることは出来ない、十二代としての独創性を表現する手段のきっかけとして「絵付け」の仕事が始まった。
昭和六十年、伝統工芸新作展で絵付けの作品で初出品する。萩焼は歴史的に絵付けの仕事は少なく、周囲からの反応も決して肯定的なものばかりではなかったが、自分の出発点である表現を突き詰めるべく模索は続いた。
井戸茶碗
昭和六十三年に十二代坂高麗左衛門を襲名、雅号を「熊峰(ゆうほう)」と称し、本格的な茶陶の制作も始まった。その年から平成二年まで「襲名記念展」を各所で展開、宗家の重圧を改めて感じたという。また、平成四年には日本工芸会正会員となっている。
力を入れる絵付けの作品は皿、花器、陶筥などを施釉した上に、粘土に顔料を混ぜて載せ発色させる、象嵌にも似た技法で絵画空間を表現するもの。但し、その作品は技術的にもかなり高度なテクニークと経験が要求される。異なる性質の粘土を合わせて焼成するので、その土の微妙な調合や温度管理を少しでも誤ると顔料を混ぜた土がめくれ上がったり、ひび割れや思うような発色が得られないなど非常に繊細な作業が要求される。その神経の行き届いた作品は、長く培ってきた日本画の表現が巧みに施され、情緒豊かな優美な作品である。
陶彩華芍薬長方陶筥
「単なる装飾的な意味だけではなく、そこから生まれる造形の本質を」と、平成三年、大阪の個展では従来の展示方法とは異なり「日月」をテーマに会場空間を意識したインスタレーション的な試み、空間の中で立体、絵画の存在性を探る企画を試みた。
また、近年は「技術的には安定してきているので、新たな方向性をもまた探っていきたい。」と語る。絵画と立体との空間表現の新しい方向性、またその合目的性を今後どう突き詰め、表現するか。「十二代として坂窯の十二分の一には終わらない、これぞ十二代という仕事を確立したい。」と語るように、宗家としてのプレッシャーを逆にエネルギーとして転化するかの如く自己の表現を追求している。
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