萩焼入門第2部/作家名鑑 第1回
文:白田 豊
三輪 和彦 ・ MIWA KAZUHIKO

 幼い頃から陶芸を体質的に、全く自然に感じ受け入れていった。漠然と将来の方向性を決定した三輪和彦は、たまたま家業が陶芸家であるという宿命を振り解く作業へと、これもまた自然に向かっていった。

 昭和二十六年、十一代休雪の三男に生まれる。幼い頃から絵を描くのが好きで、小学校の高学年の頃は毎日のようにスケッチブックを抱え、友達と絵を描いていた。また、中学になると夏休みなどに兄の龍作の下宿を利用して、東京の美術研究所に通い、デッサンを勉強している。その当時に龍作と一緒に見たピーター・ヴォーコスの作品に衝撃を受けた。

 昭和五十年にアメリカ、サンフランシスコ・アート・インスティテュートへ留学する。彫刻科の陶芸部門に籍を置き、五十六年に帰国するまでの六年間、様々な可能性を探った。自身を全く個として存在させ、異なる伝統や習慣の中で自己を確認する。陶芸を選択した事が家業によるものだとしたら、それらに纒る余分な要素をひとつひとつ削ぎ落とす作業、幼い頃に決意した陶芸をよりニュートラルな視点で捉えることが、このアメリカでの生活の一番の目的であった。

 三輪和彦のデビューは帰国から三年後の昭和五十九年、山口県立美術館「今、大きなやきものに何が見えるか」。四十数トンもの生土を会場に持ち込み、その土の上をバイクやジープで走り、轍をそのまま残した「D E A D E N D 」である。

 昭和六十二年の初個展「恒久破壊」では、轆轤と紐造りによって高く太く立ち上げられた円筒形の一端を縦に切り開き、広げて自然に亀裂を生じさせたものだが、「D E A D E N D」と同様に土の持つエネルギーを自己の造形思考で押し殺さない、土が持つ生命感、存在性を確認する行為が三輪和彦の造形の原点となっている。


Untitled '88

 その翌年、六十三年の個展では、直径一・五メートル程のドーナツ状の造形で、「無題?氈`?「」と題された作品は、野焼きで制作されている。土の持つエネルギーを獲得した和彦は、今度は焼成に着目する。畑の真ん中に工事用のブロックで囲いを作り、薪をぼんぼん投げ入れる。トラック数台分の薪を使い、およそ十四、五時間かけて表面温度が千度くらいに達するまで焼成する。焼成中にドーナツの表面が熱でひび割れ、真っ赤になった土の塊が辺り構わず飛んできた。火と土のエネルギーとがぶつかり合って作者に襲いかかるかの様である。陶芸は、焼くことに重きを置く。和彦はその焼くことの原初的な部分を見つめるために、土の持つエネルギーを確認する行為と全く等しく野焼きを試みた。これらの一貫した活動は、同六十三年の「ばけるほのお展」平成元年の「無想の地」と続き、平成五年にこれらの関連作「砦」が鳴門市の恰美術館に収蔵されている。
 三輪和彦はまた、轆轤に強い関心を示す。「轆轤で土を挽き殺していくんではなくて、轆轤を使って、何か土に発言力をもたせる」と語る。昭和六十二年「机上空間のためのオブジェ展」の細い円柱形の針山状の「変奏曲」、平成三年からの「白い夢」シリーズなどに見られるように、ある中心の「核」のようなものが横に広がったり、天に向かって伸びていく。轆轤の運動性能や遠心力、外部圧力や重力と闘いながら、その中心の核が同じ質量で膨らむのではなく、増殖しながら変容する造形である。それらは、形態こそ異なるが、造形思考は同一線上にあり、それは、轆轤を仲介とした作者と土のエネルギーのせめぎ合いそのものなのである。

白い夢

 平成七年、山口県立美術館「はぎやき展」では「D E A D E N D? 」を発表。今度は、粘土ではなく土そのものを立方体の囲いに積め圧力を加えた後、囲いをはずしたものだが、土の積層を露にし、素材のより根源的なエネルギー、存在性に迫った。

 三輪和彦は、常に素材である土と制作の過程に関わる様々な要素を解体し自己としての核を増殖させることで陶芸との関わりを追求する、稀有な陶芸家の一人である。