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独立、築窯からちょうど十年を契機にそれまで未踏であった「茶陶(茶碗)」の発表を行った。名人を父親および叔父に持つ者の厳しさゆえのタイミングであった。
三輪栄造は昭和二十一年、十一代休雪の次男として生まれる。幼い頃から父親達が毎日泥まみれで仕事をする姿を目の当たりにしていた栄造は、自然と陶芸から離れようとしていった。
昭和四十四年、武蔵野美術大学彫刻科を卒業すると、あるガラス工房への就職がほぼ決まっていたが、ガラスという素材に何か冷たさや違和感を感じ、武蔵野美術学園の助手として東京に残った。しかし、間もなく学園紛争に巻き込まれ、学園は封鎖、四十五年に萩へ帰郷、作陶の道を決心した。この年に叔父である休和の養嗣子となっている。
当時、窯では休和と休雪が共に現役で仕事をしていた時期であり、栄造はこの二人のかけもちで下仕事をこなしていた。「休和にしても休雪にしても、僕達に一番影響を与えたことは、影響を与えないようにしようということなんだよね。親父が無理矢理ああしろとか、休和にしても、こうしろとかいうことは一切やらなかった。」この下仕事の頃の経験が原動力となり、「鉄を使ったり、絵の具を使っての表現手段(素材)は沢山あるが、一番身近な素材で、一番自由に動いてくれるというか、自由に表現が出来るもの」という、作陶を決心した栄造にとっての「萩焼」の基盤が構築された。また「この頃の僕は従来の萩焼の概念から、かなりかけ離れたものを手がけようとしている」として、自己の出発点を確立した。
昭和五十三年、日本工芸会山口支部展に初入選、以降五十六年まで連続入選をし、日本工芸会正会員となる。「白釉灰被面取花入」「陶筥」「萩角皿」など、面取や刳貫、灰被などの技法による造形は、修行時代に培ってきた三輪家の伝統を彷彿とさせる堂々たる作品である。
昭和五十七年「萩国際彫刻シンポジウム」に於いて一年間作陶を休み、石彫の制作に取り組む。好奇心旺盛な一面を見せた。六十年に独立、自分の窯を築いた。
この頃から栄造の造形思考の拡大が見られるのだが、栄造自ら「遊びの世界」という作品の発端となった「男のネック展」(六十三年)からの作品群の構想は、栄造が陶芸を志す時点ですでに確立していた。この企画展は「ネック」というテーマを首の回り、或いは障害という意味も含め、普段の仕事とは離れた制作が求められたものだが、栄造は鉢の一ヶ所を切り、襟形に曲げたもの、花入に土の板を巻いてコートを纏った男のような造形で、金彩や銀彩を施した作品である。
ここから更に、平成二年に山口県警本部の陶壁、新しい茶陶と取り合わせの方向を探ろうという主旨の「千種会」に出品したシャープなクルス形の金彩を施した水指、三年には「雪月花展」に於いて角柱形、三角柱形などを金彩や原色の釉薬を使い、幾何学的な造形物が大規模にインスタレーションされた。続く四年の「あそびのシンポジウム」では、注射器のような形をしたアマチュア用の土の紐作り器で、ラーメンや脳味噌のように細い紐状にした粘土をくねらせ、積み重ねた「M
Y M I N D」、六年「香りと水の器」では金銀彩と黒い釉薬でクルス模様をイメージさせるデザインで、シャープな造形の水指、香炉、香合などを発表している。
金銀彩香合
これらの作品群は、栄造自ら「誰が見ても萩焼だという仕事」という白萩釉や灰被などによる作品群と微妙なバランスを保ちながら栄造自身の中に存在し、自らの出発点を認識し続けている。
誰もが待ち望んだ「茶陶」の発表は、前述の如く、独立した年からちょうど十年目の平成七年。それは装飾性の少ないシンプルな造形であり、内に秘められた造形思考やこれまで暖めてきた茶陶感が内在する。茶陶の生命といわれる抑制が全く自然に表現された、存在感のある作品である。
白萩茶碗/灰被水指
こうして、満を持して茶陶作家としての存在を公にした三輪栄造の造形思考は、「男のネック展」から見られる造形の拡大と共に深遠し、萩の次世代を担う一人として非常に重要な存在である。
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