第1部:第5回・萩焼とは
(第1部最終回)
文:斉藤武男

=萩焼らしさとは=

 これまで、四回にわたって萩焼についていろいろ述べてきましたが、今号ではそろそろ締めくくりに入りたいと思います。
 「萩焼らしさ」という言葉は、日常よく使われる言葉ですが、最初にも述べたように、萩焼らしさとはいったい何なのでしょう。そのあたりを、くわしく考えてみたいと思います。
 萩焼の条件として、よく言われていることに、素材の問題があります。粘土や釉薬、そして松薪で焼く登り窯などが萩焼の条件となっています。とくに粘土については、基本的な条件として、大道土があげられます。大道土を使ったものが萩焼であるという定義づけです。
 ところが初期のものには、大道土が使われていないものもあるようで、もし大道土が使われていないものは、萩焼の範疇に入れることができないとすると、大道土を使っていない、初期の古萩と呼ぱれるものには、萩焼の条件に当てはまらないものも多く出てきてしまいます。
 現在では、大道土を墓本として、鉄分の多い見島土、耐火度の高い金峯土の3種類をどの窯でも使っていますが、もともとは萩の場合は小畑土、深川では御所原土や河原土などの、地元で採れる土を中心に使っていたようです。(陶子9号・萩焼入門第3回参照)だから、その頃の萩焼を見ると、今私達が目にするものとは、ずいぶん違った雰囲気のものも多いわけです。
 このことは、陶子9号の工房訪問で、新庄貞嗣さんが、くわしく語っている通りなのです。新庄さんはそれについて、時代の美意識の変化と語っていますが、このことは萩焼の歴史と伝統を考える上で、とても重要なことなのです。その時代を生きる人達の美意識の変化によって、新しい芸術が展開していくからです。萩焼も時代の変化の中で、変遷を重ねて現代があるわけです。

=現代作家の個性的な作品=

 現代の萩焼を代表するものに、三輪休雪さんの、白い釉薬のたっぷりかかった鬼萩茶碗があります。これほ、萩焼の基本的な釉薬である透明な土灰釉に、藁を焼いた灰を混ぜた、藁灰釉と呼ばれる釉薬で、早くから使われていたものなのです。しかし、この藁灰釉をたっぷり掛けるという方法は、十代の休雪さん(人問国宝・休和)によって開発され、今の十一代の休雪さんによって完成されたもので、休雪白とか三輪白だとか呼ぱれているものです。当然、江戸時代を含めて、それまでの萩焼には見ることはできませんし、「らしさ」ということからみれぱ、萩焼らしくないという見方も当てはまるかも知れません。萩焼らしくないということでは、文化功労者だった、故吉賀大眉さんの、有名な「暁雲シリーズ」も、独自の炎箔の仕事が認められて「山口県指定無形文化財萩焼保持者」の指定を受けた、大和保男さんの「塩箔シリーズ」も、あまり萩焼らしいとは言えません。
 ましてや、原色の色釉や金彩、黒陶など、あらゆる可能性を求めて生まれてきた三輪龍作さんのオブジェを萩焼と呼べるのでしょうか。しかし、現代の萩焼を語るのに三輪龍作の名前を抜きにしては、語ることができないのは明白な事実なのです。
 こうして見ていくと、現代作家として活躍している人違のほとんどが、いわゆる萩焼らしさという枠にとらわれず、いかに自己の仕事として、個性を発揮しているかということがよく分かります。それが新庄さんの言う、時代による美意識の変化ということにもなると思います。
 窯についても、絶対に登り窯でなければいけないと言う人もいますが、たしかに、窯変や灰被りなどのように、登り窯でしか出せない独特の味はあります。しかし、窯変などに頼らない作品の場合、ガス窯や電器窯などの、科学的に進んだ窯のほうが、メリットが大きい場合もあると言えるかも知れません。
 有名な、志野の人問国宝である鈴木蔵さんは、志野茶碗を焼くのに、ガス窯を使っています。ガス窯のほうが、自分の思い通りの表現ができるからということです。
 だから、自分の表現にあった窯を選ぶべきなのであって、萩焼の性格からいって、登り窯の焼き味を大切にする部分は確かにありますが、登り窯でないと良いものは焼けないという決めつけは間違いのような気がします。
 現代の陶芸で、いちばん大切なことは、作家が何を表現したいかということであって、登り窯だから良いというわけではなく、登り窯で焼いても、魅カのない作品ではどうしようもないわけです。だから登り窯が、萩焼の絶対的な条件だとは、とても言い切れないのではないかと思います。
 こうして考えてみますと、萩焼としての定義を、もっと広げて考えないと、萩焼の過去・現在・未来は語れないことに気がつきます。
 萩焼は茶陶であるという、強いこだわりもあります。確かに殿様の御用窯として、茶陶の生産が中心だったことは間違いありませんが、茶陶しか作らなかったわけではありません。とくに、半官半民の形態だった深川では、窯の運営のために、一般に売りやすい倉器などの日用雑器も、多く生産していました。
 だから、蒸陶としての萩焼の魅力は、とても重要な部分には違いありませんが、日常使う器の魅力も、またなおざりにはできないと思うのです。
 現代の萩焼を見た場合、お土産品としての量産品を含めて、非常に多様化しています。オブジェであれ、茶陶であれ、日用品であれ、お土産品であれ、やきものであるからには、陶芸の本質にどうかかわっているかということが、とても大切なことではないかと思います。
 陶芸の本貧という、何だか離しい言葉が出てきてしまいましたが、要するに、なぜ土で造形するのか、なぜやきものなのかということなのです。

=やきものの歴史は前衛芸術の誕生=

日本のやきものの歴史は、紀元前一万年前後に誕生した、日本最古のやきものである縄文土器によって始まります。人類が、はじめて土で造形し、火で焼いて器を作ったということは、それまで全く前例のないことで、その意味でも、きわめて前衛的なものが生まれたのです。
 鍛金家の橋本真之さんが「初めて器を作った人ほ偉い、その後の器はすべてコピーだ。」と言い切っていますが、まさにこの縄文土器こそが、この世で初めて作られたやきものの器であり、橋本さんの言葉は、いささか極端すぎる言い方かも知れませんが、器の真理をついた言葉だと思います。
 この縄文文化も、紀元前5〜4世紀ごろには終わりを告げ、大陸文化の影響を受けて、水稲耕作や金属器による、新しい弥生文化が生まれました。そして生まれた弥生土器は、また新しい前衛芸術だったのです。このように、時代の流れの中で、生活様式の変化につれて、次々に新しい文化が起こり、これまでにない前衛芸術が誕生します。それが、特に顕著だったのが桃山時代です。千利休によって、わび茶の思想が起こり、やきものにも大きな影響を与えます。
 その時代の茶の湯は、茶室という空間も含めて、非常に前衛的で、哲学的な芸術活動そのものでした。それによって、楽や志野、江戸黒、黄瀬戸、織部など茶陶の前衛が、次から次へと生まれ、本阿弥光悦や長次郎のような、すぐれた芸術家が登場します。
 しかし茶の湯の世界が、家元制慶によって、システム化されるにしたがって、本来は芸術活動であったはずのものが、制度化された、流儀という決め事の枠の中でしか考えられないものになってしまいました。茶碗の見方も、先生の考え方が、そのまま弟子に押しつけられて、個々の感性で楽しむという形を失ってゆき、次第に形式的になっていってしまったのでした。
 茶陶も徐々に独創性が失われて、いわゆる名品のコピーが珍重されるようになってきました。良いものだと言われているものに似たものを持ちたがるという、奇妙な風習が高まっていったのです。これは芸術の本質からは、まったく別の次元のもので、現代でも、よく桃山の再現を目指すというような言葉が、まことしやかに使われたりしていますが、これも陶芸の本質からは、遠く離れてしまうことになってしまいます。
 萩焼は、朝鮮半鳥からの帰化陶工による、李朝のやきものの写しから始まったものですが、やがて古田織部や小堀遠州たちとの交流によって、楽や織部の影響を受けた、独自の和風を生んでいます。時代の流行を、敏感に取り入れていったのです。
 しかしこの変化も、当然藩主の好みによるものであったわけで、一部の例外はありますが、全般的には、何かの形を参考にしての、コピーの領域を超えることはできなかったようです。とくに、高麗茶碗を代表する井戸茶碗の写しは、その典型であると思います。

=井戸茶碗について=

 ここで、井戸茶碗について述べてみたいと思います。
 井戸茶碗は、朝鮮茶碗の王者として、古くから茶人の間で、最も重宝されてきた茶碗です。単に名品が多いだけでなく、数も種類も他の茶碗に比べて、はるかに多いのは、おそらく朝鮮で、最も広く民間に普及し、窯も沢山あったのではないかと言われています。
 高麗茶碗と言われているもののほとんどは、李朝時代に作られたものですが、ただひとつ、この井戸茶碗だけは、高麗末期のものだと見なされています。
 井戸茶碗の由来については、いろんな説があります。二、三の例をあげてみると、井戸若狭守覚という人が、朝鮮出征の時に、向こうでこれを手に入れて持ち帰ったので、この名前がついたという説。また古い井戸から、沢山発掘されたので井戸と呼ぶようになったという説や、萩焼の創始者である、高麗左衛門の出生地と伝えられる、慶尚道の葦登が井戸茶碗の産地で、その地名を井戸に書き改めたのではないかという説もあります。また朝鮮語で、釉薬を衣土ということから井戸という名がついたという説もありますが、いまだに定説はないようです。
 井戸茶碗で有名なものに、国宝の喜左衛門井戸があります。この茶碗には、面白い話が伝えられていますので、ちょっと脇道にそれますが、それについて述べてみましょう。
 慶長年間に、大阪の商人竹田喜左衛門という人が、この茶碗を持っていたので、その名前がついたということなのですが、後に本多能登守忠義に伝わったので、本多井戸とも呼ばれています。
 この茶碗を愛蔵していた喜左衛門の商売は、やがて不振になり、零落してしまいます。当時の井戸茶碗の人気は大変なもので、非常に高価なものでしたから、彼がその茶碗を売れば、充分事業の立て直しはできたと思われます。
 しかし、その茶碗を愛していた喜左衛門は、とても手放す気にはなれませんでした。乞食同然の放浪の身となって、最後には、身体中に腫れ物ができて、野たれ死んだのですが、茶碗を入れた袋を首から掛けて、終生肌身から離さなかったということです。
 その後、いろんな好事家の手に渡りましたが、喜左衛門の腫れ物のたたりは消えず、この茶碗の持ち主は、次々に腫物ができて苦しんだということです。巡り巡って松平不味の手に渡りましたが、不味もまた、腫れ物に苦しむようになり、最後には京都の孤蓬庵に納められました。
 今もこの茶碗は、大徳寺の孤蓬庵にありますが、喜左衛門の怨念も、この寺に入ってやっと治まったのでしょう。その後、孤蓬庵のお坊さんに、腫れ物が出たという話は聞きません。

=茶人が発見した井戸茶碗の美=

 さて、この井戸茶碗は、庶民の日常生活に使用する、いわば井茶碗のようなもので、大量に生産されたものと考えられます。形も非常に簡単なもので、ロクロの手間のかからない形になっていて、わずか数回転で仕上げています。
 井戸茶碗の見所の一つとされる、竹の節の形態に似ていることから、竹節高台と呼ばれる高台の形も、最小限の削り作業にとどめているところから生まれた形なのです。同じく、井戸茶碗の条件とされている「かいらぎ」は、高台の内外にできた釉薬の縮れで、釉薬が鮫肌のように荒れて、ぼろぼろに見えるものを、美しい景色として賞賛されているものですが、これは下部が焼け不足で、釉薬が充分に溶け切らない状態で、技術的には欠陥と言えるものかも知れません。
 当時の陶工は、かいらぎのない、すっきりしたものを焼きたかったのかも知れませんが、大量に焼くために、そんなことに、かまっている余裕もなかったのでしょう。そして、これも井戸茶碗の見所と言われている目跡も、大量に焼くために、窯の中で重ねて積んだためにできた跡なのです。
 このように、井戸茶碗の見所とされているものすべてが、美しいものを作ろうとする、作り手の意識でできたものではないのです。
 これらの民窯の製品は、当時の官窯の優れた技術による、完成度の高い作品と比べて、大きな違いがあります。王候貴族のやきものを作る官窯に比べて、一般庶民のための日用雑器を焼く民窯は、職人のレベルも、当然低かったと考えられます。美しいものを作ろうという意識もなく、ただ量をこなすだけの、単調な毎日の作業の繰り返しの中で、無意識のうちにロクロの技術も向上し、独特の美が生まれていったのだと思います。
 だから井戸茶碗に関して言えば、あくまでも、作り手の美意識によって生まれたものではなく、当時の茶人達が、彼らの思想であった、わぴ・さびに通じるものとして、大量に作られたものの中に美を発見したもので、使い手の美意識によって発見されたものであると言えるでしょう。
 このように、茶の湯の世界で珍重された井戸茶碗は、現代でも茶人達の憧れの的であり、茶会でも重宝されているようです。
 ルーツを朝鮮半島とする萩焼にとっては、井戸は原点であり、素材の点から見ても、井戸茶碗に近いものを作れる可能性を持っています。また事実、古い萩焼には、高麗茶碗に間違われているものも多いようです。そんなわけで井戸茶碗の写しは、古くから萩の職人さん達の間で盛んだったし、現代でも多くの人達が井戸茶碗の再現を目指しています。

=伝統を守るということ=

 しかし、はじめに述べたように、古いものを模倣するということは、道其の世界では意味のあることかも知れませんが、陶芸を芸術であると考えた場合、それは陶芸の本質からは、かなり隔たってしまいます。模倣と創造とは、芸術の世界では全く別次元のものなのです。
 陶芸の世界では、伝統を守るという言葉も、大切なキーワードになっていますが、はたして古いものを模倣することが、伝統を守るということになるのでしょうか。
 伝統とは広辞苑によると、「ある民族や社会・団体が長い歴史を通じて培い、伝えてきた信仰・風習・制度・思想・学問・芸術など。特にそれらの中心をなす精神的在り方。」となっています。
 歴史の中で伝えられてきたものが伝統なのです。それでは、その伝統が生まれてくる時点はどうだったのかということを考えてみましょう。
 いつの時代にも、人間の文化が、新しい前衛を生み出してきたことは、先程から述べてきた通りです。新しい時代の前衛が生まれ、それが歴史の中で、伝統として残されてきたのです。
 だから縄文以来、もし新しい前衛が生まれていなかったならば、人類にとって伝統とは縄文文化以外にないはずなのです。
 いつの時代にも、その時代を生きた人によって伝統が受け継がれ、それによって新しい文化が生まれてきたのです。その新しい文化こそが前衛なのです。
 だから伝統を守るということは、その時代を生きる芸術家にとっては、新しいものを創造していくということでもあるわけで、言い換えれば、伝統を守り、新しい前衛を生み出していくということこそが、その時代を生きる芸術家の務めだと思うのです。
 だから、井戸茶碗を写すことも、歴史を学ぴ、その時代を生きた人達の生き方を知る、「特にそれらの中心をなす精神的在り方」を探るという意味合いでは、とても大切なことなのですが、単に表面的な形を真似るだけでは、コピーを作るだけのことであって、新しい創造に結ぴつくのでなければ、それは文化でも芸術でもありません。
 たとえば、偉大な芸術として有名なゴッホの「ひまわり」を、現代の画家が、そっくりそのまま描いたとしても、誰もそれを芸術とは思わない。せいぜい贋作とされるだけしかないでしょう。
 井戸茶碗のコピーも、それと同じ次元のものでしかなく、現代の芸術の地平で、陶芸だから許されるということはないはずです。
 井戸茶碗は、その時代を生きた人達の創造であり主張なのです。ジェット機が飛び、新幹線が走り、テレピなどによって瞬時に世界中の情報がわかる現代人が、現代という時代性の中で創造するものが、高麗時代と同じであろうはずはありません。
 やきものというものが、単に道具としての成り立ちしかないのであれば、道具として使いやすく、好まれてきた形のコピーで充分なのでしょう。しかし、歴史と伝統を学んだ現代の陶芸家にとっては、それを超えての、現代に生きる人間としての主張こそが、陶芸の本質なのではないでしょうか。

=純粋な芸術作品として自立する陶芸=

 やきものは、もともと器として生まれたものなのですが、現代では美術表現の素材として、現代美術の世界にも登場するようになってきました。
 やきものを作る仕事も、職人の手から芸術家の手へと移っていきました。現代の陶芸の状況は、美術を学んだ人達が、自己の芸術表現の手段として、陶芸を選ぶというケースが目立つようになってきました。
 やきものが、用途から離れて、純粋な芸術作品として、自立しようとするものが目立ち始めたのも、当然の結果と言えるでしょう。
 歴史的には、第二次世界大戦後アメリカから来た彫刻家イサム・ノグチの影響などによって、やきものによる彫刻、陶彫作品が生まれました。
 しかし、単に彫刻を焼いただけの作品には、なぜやきものなのかという必然性が感じられません。なぜ土で造形して火で焼いたかという明確な論理が見えなくては、陶芸として自立することはできないのです。
 このように、陶芸と彫刻の狭間を揺れ動きながらの試行錯誤のすえ、京都の八木一夫によるオプジェ焼の登場は、初めて陶芸の本質を間いつめたものとして、日本の陶芸史上画期的な出来事でした。
 柳宗悦の民芸運動による「用の美」の思想も、一時は画期的なものとして注目を集めました。用の美という言葉は、現在でも時々耳にする言葉なのですが、使いやすいものでなければ美しくないとするこの言葉も、今では陶芸の本質を曖昧にするもののひとつになってしまいました。
 民芸運動は、これまでの高級指向、名品主義に反して、無名の職人が作った作為のないものにこそ、工芸の本当の美しさがあるとして、用の美を唱えたものです。しかしこの運動も、工芸の本質を問うことはできなかったのです。
 工芸には、見る側の論理と作る側の論理があって、工芸作品は、作る側の論理が明確でなければいけないと主張するのは、東京国立近代美術館の金子賢治さんです。
 民芸運動は、言ってみれば見る側だけの論理の主張であって、肝心の作る側の論理が、全く無視されてしまっていたところに、大きな矛盾があったのだと思います。
 作家自身が、用の美という言葉によって、自己の主張を捨てて、使う側に迎合してしまったのでは、作る側の論理が明確なもの、すなわち良い作品が生まれるわけはありません。

=おわりに=

 ここまで述べてきて、萩焼らしさとは何なのかということの結論が、まだ出ていないことに気がつきました。というよりも、萩焼らしさということの結論は、出るはずがないような気もいたします。
 前号まで、萩焼の特徴として述べてきた事柄も、素材や技術については、大部分は、すべてのやきものに共通の問題であって、萩焼だけが特別ということも、あまりなかったような気がします。
 萩焼と呼ぴ始めたのは明治以後のことで、それまでは松本焼と深川焼という名称で呼ばれていたのです。明治維新によって藩の庇護がなくなり、窯元は自分の営業努力によって窯の維持をしなければならなくなりました。博覧会などに出品して、価値を認めてもらうという努力も必要になってきたわけです。
 そこでは、萩焼というブランドでのPRが重要な課題となり、誰が見ても萩焼だと分かる、統一したイメージを持つブランド商品が必要になってきたわけです。ブランド商品として生きるために、萩焼は自分の持つ、可能性という幅を極端に狭めてしまったのでした。
 萩焼という「地名ブランド」は、確かに、この地方のやきものに付加価値を与えてくれています。単にコピーでしかないものや、大量生産によるものが「萩焼らしさ」というイメージによって、もてはやされている現状は、この地方の経済にとって、美味しいものであることには違いありません。
 しかし、現代の工芸という地平では、萩焼が、そのような狭い範幹で生きていけるわけはありません。萩焼などの地名プランドも、やきものの条件として、いつまでも大切なものとして続いていくとは限りません。「萩焼らしさ」という言葉は、あくまでも情緒的で曖味な言葉でしかないのです。
 このように「らしさ」が、やきものにとって重要な意味をもつものでなければ、地名ブランドは作る側にとっては、全く本質のない根なし草になってしまうのです。
 すべての焼物に、陶芸の本質ということが問われる時代になってきています。萩焼が、特別なやきものであるということではなく、陶芸という同二の地平で、いかに主張していけるかということしかないのです。私がこの項で特に言いたいのはこのことなのです。
 山口県立美術館で、榎本徹さんが企画した「今。土と火で何が可能か」展が開かれたのは、1982年のことでした。今からもう十数年も前のことだったのですが、「今。土と火で何が可能か」というテーマが、今も着々と展開されているのが、現代の工芸のシーンであり、それが萩焼の世界でもあるのです。
 現代の萩焼作家達の「作る側の論理」が、作品にどう明確に表現されていくかが、陶芸というシーンの中で、存在価値を持つことができるかどうかにつながるものだと思うのです。

(萩焼入門第1部・終わり)