第1部:第2回・萩焼の歴史2
文;斉藤武男

=萩藩御用窯の移り変わり=

 話をもとに戻しましょう。
 それまで松本御用焼物所の惣都合だった山村新兵衛光政の三ノ瀬への移住により、惣都合の地位はおのずから坂家に移ったのでした。
 その坂家では、三代新兵衛の時に薪山として藩から与えられていた唐人山を返上しています。それは、山村系の一族のほとんどが三ノ瀬に移り、松本御用焼物所は坂家だけの御用窯になって、広い山の管理が行き届かなくなったためと考えられます。
 この坂家三代坂新兵衛は、宝永二年(1705年)の東大寺の慶落法要の時に、たくさんの平碗を寄進したことが知られています。
 このころになると、藩が江戸の要人や諸大名への贈り物に使っていた茶碗や茶入れなども底をついてしまったようでした。元永四年(1739年)の藩の記録には、萩に残っている物も全部江戸へ持ってこさせたので余分は全くなく、十分配慮して使うようにとの厳しいお達しが残っていて、そのころの萩藩の贈り物の量が、かなりのものであったことが推測されます。
 三輪窯では、元永三年(1738年)に四代休雪が重臣の堅田邸で六代藩主毛利利宗廣の前で制作をご覧にいれるという栄に浴し、永享元年(1744年)には初代休雪に次いで、京都での楽焼きの修行を命じられています。それによって萩焼の和風化が、ますます進められたことが推測されます。
 この頃はまた、全国的に中国趣味の煎茶が流行して、萩藩でも御用窯への注文に煎茶の道具が多く出されているのも興味深いことがらです。
 松庵を嗣いだ三ノ瀬窯の惣都合〆、山村平四郎光俊は、宝永六年(1709年)に72才でこの世を去りました。彼は明暦二年(1656年)に召し抱えられて以来、54年間。三代吉就、四代吉広、五代吉元の三代の藩主に仕え、名工として名を残しています。
 その山村家の五代源次郎光長も、すぐれた技術の持ち主でしたが、宝永三年(1774年)
病気のため、養子の源右衛門は、源次郎に家督相続を藩に願い出たまま、63才で亡くなってしまいました。ところが養子の源右衛門は、源次郎の喪中というのに、住吉神社の祭り
の夜に萩の市中で刀傷事件を起こして見島へ流刑になり、山村家は五代でもって断絶してしまったのです。
 さてそれより先、御蔵元支配を離れて地方庄屋支配となった三ノ瀬窯は、その後藩の援助も次第に遠のいてしまったのでした。窯の新築や修繕などもすべて自分でしなければならなくなり、窯の経営も困難になってしまいました。そこで三ノ瀬の焼物師たちが連署して、以前のように御蔵元の直轄支配に復帰できるように、萩の七代坂助八に藩へのとりなしを陳情していますが実現しませんでした。
 三ノ瀬の近くには俵山温泉があり、藩主をはじめ上級武士や学者達もも湯治を兼ねて窯遊びに訪れる機会も多く、三ノ瀬の陶家にとっても茶会を開いたりして、文人墨客との交流も多かったということです。

=御用窯の仕組み=

 その当時の御用窯は、地域の産業的な意味あいを持つものではなく、単に藩主の御用を務めているのが目的だったようです。従って、陶工たちには、士分としての地位と名誉が与えられていました。すなわち何人扶持、米何石、銀何刄というふうに、下級藩士と同じ処遇で、苗字、帯刀も許されていたのです。
 そこで、窯などの設備や粘土や薪などの材料、その他全てを藩が負担して、藩主の注文のやきものを焼いていました。
 当時坂窯の記録に、いろいろな事例が残されていて、それによると、窯や仕事場などの修理や建て替えなどの経費は藩から支給を受けるか、あるいは藩の直轄工事として行われました。
 材料についても御用命のたびごとに、粘土や釉、燃料など必要な材料を御蔵元に届け出て、支給を受けました。
 また、土掘りの経費は藩から無利息で借りて、それを五年の年賦で返すことになっていて、漉し土は藩が買い上げる仕組みもあったようです。大道土の採掘も御蔵元の長官から現地の庄屋に手配して行われ、御用焼物師が、現地へ調査に行くときは、その出張費用は公費でまかなわれてもいました。このように藩の直轄ともいえる松本御用窯に対して、深川三ノ瀬焼物所は、自分焼きも認められていて、自家営業のかたわら随時藩の注文に応じていました。その都度、御蔵元から検使の役人が立ち会って上納する茶碗をチェックしていたということです。そのときに窯税として銀六刄を納めていたことが知られています。
 松本、深川のどちらも日常の容器類を基本にして、侘茶の茶陶として流行した高麗茶碗ふうの茶碗を焼いていますが、松本のほうが茶陶中心で焼かれていたようです。
 この萩焼の茶碗も、江戸時代の中期まで「茶会記」にもほとんど登場していません。後期になってようやく民間の茶会にも使われ始めたようです。
 茶陶として評価されていた萩焼としては、不思議な気がしますが、濃茶茶碗を藩の御用以外には禁制したり、大道土の民間の使用を禁止したりして、茶陶を藩の独占にしようとしていた萩藩の政策によるものだと思われます。
 ところが、自分焼として、自家営業を認められていた深川窯は、茶陶中心の松本に較べて、日常の食器の生産にも力を入れていたようです。特に御蔵元の直轄支配を離れてからは、食器類の量産によって経営の安定に努力してきました。
 このように、松本窯と深川窯では、おなじ御用窯でありながら、それぞれ違った性格を持っていたのも興味深い事柄です。

=維新後の萩焼=

 明治維新の変革は、萩焼にとって大変な出来事でした。特に、これまで藩から手厚い保護を受けてきた御用窯にとって、スポンサーとしての藩がなくなったのですから、大変なことになったのです。
 三ノ瀬窯では、はじめから半官半民的な性格で、徐々に民間経営の色彩を強めていましたので、大きな打撃は受けなかったようですが、藩から丸抱えされていて、いきなり自立を迫られた松本の坂、三輪の両家にとって独立自営の道は容易なことではなかったようです。
 各窯元が県の指令によって「陶器商営業」の許可を受けて再出発したのが明治九年(1876年)のことでした。精神的にも苦しいスタートだったに違いありません。
 特に坂家の場合、販路の拡張につとめて何とか営業していましたが、御用窯時代からの原料土もなくなり、細工場の修繕や道具類の補修などの経費の都合もつかなくなったうえ、おりからの大雪による被害もでて、明治十五年(1882年)に九代坂道輔が県に救済を訴えました。これによって、県から四百円の融資を受けることができました。しかし、一年間の約束が、一年延びてやっと返済できたような状態で、さらに明治十九年(1886年)にもまた大雪の被害にあい、修繕費として六十円の融資を受けています。
 このことから、当時の窯の運営がいかに苦しかったかを想像すると同時に、御用窯に対する県の特別の配慮があったことを知ることができます。
 この頃の営業政策として、大きな宣伝効果があったのが、内国勧業博覧会をはじめ、いろいろな共進会などに出品して受賞することでした。各窯とも萩焼の名声を高めるための血の滲むような努力が続けられたのでした。
 一方では、旧城下町の富商階級の陶磁器産業への進出によって鴻羅山窯や指月窯が生まれました。また、旧藩士の授産事業的なものとして南方窯や東光寺窯などが生まれ、前に述べたように江戸時代末期に衰退していた小畑陶磁器窯も活況を見せ始めたのでした。
 こうして、明治十年代の萩の町には十を越える陶磁器窯が存在して、萩焼が産業として発展したかの様子もありましたが、これもまもなく衰退してしまいます。
 三輪窯の八代雪山も苦境に堪えながら三輪窯の伝統の技術を守り続けましたが、同時にこれらの新しく興った窯の技術指導にも非常に熱心だったといわれています。
 このうち、東光寺窯が営まれたのは、明治十四年から二十年までという短い期間でした。ここの職長を務めていたのが三輪雪山に師事した大和作太郎です。
 作太郎は、東光寺窯廃窯の後、松緑(しょうろく)と号して、すぐ近くで松緑焼を始めましたが、長くは続かず、わずか3年で山口焼の職長として山口へ移住しました。明治二十三年(1890年)、彼が35才の時でした。しかしここも2年でやめて吉敷郡宮野村(今の山口市宮野)で独立したのでした。
 この宮野焼(松緑焼)も一族の窯が増えてきて、現在では三代目の時代に入り、「山口萩焼」として活況を呈しています。
 三ノ瀬も江戸末期には窯元の数も十二を数えていましたが明治大正と経て次第に減少し昭和にはいると、坂倉、坂田、田原、新庄の四窯に激減してしまいました。この四窯にはそれぞれ地主としての経営基盤を持っていたのです。しかし不況期の経営は厳しく、窯焚きの数も減らして生産量も少なく、茶陶が極めて減少し、日常雑器が主でした。ままごと遊びの玩具として、ミニ徳利やミニ煎茶器などまで焼き、行商していたということです。
 このような状況の中で萩焼の普及、新興への各窯元の苦労は想像を絶するほどでした。その中で才覚と努力で業績を残したのが十二代坂倉新兵衛(平吉)でした。茶陶としての格式を高めるために表千家で茶の道を学び、大正二年(1913年)には山口県知事より、「萩焼陶器販路調査嘱託」の肩書きを得て全国の市場調査をしながら個展開催などで販路を広げていったのでした。現在萩焼中興の祖とあがめられているゆえんです。
 昭和に入り、三輪家でも十代休雪(のちの休和)が吉田松陰の人形を作ったり、萩焼愛好家を集めて頼母子講を開いたりしています。さらには観光客を目当てに萩焼の帯留や、外国人をあてにしたペンダントやネックレスなどのアクセサリーの制作まで手がけていたということです。昭和十年のころでした。このような打開策は坂窯でもとられており、当時の不況に対応する萩焼御用窯の苦労がしのばれます。
 第2次世界大戦の統制経済の時代は、萩と深川の窯元にとって特に厳しい苦難のときでした。しかし、昭和18年に伝統工芸の保存振興を目的とする「工芸技術保存法」によって「工芸技術保存資格者」が認定されました。萩焼では、坂高麗左衛門、三輪休雪、坂倉新兵衛、田原陶兵衛、新庄寒山、吉賀大眉の各氏が認定を受けて、辛うじて窯の維持ができたというなんとも苦しい時代でした。

=戦後の萩焼=

 このように明治維新以後、苦難につぐ苦難の道を歩いてきた萩焼も、戦後の日本経済の驚異的な復興にともなって徐々に明るい兆しが見えるようになってきました。
 戦後の混乱期ともいえる昭和23年にいちばんはやく十二代坂倉新兵衛を会長として「萩焼美術作家協会」が生まれたのも、萩焼の振興をはかるものとして、まさに時流を先取りしたものでした。
 この萩焼復興の時代に大きな貢献があったのは深川の十二代坂倉新兵衛と萩の十一代三輪休雪(のちの休和)でした。二人はともに昭和31年(1956年)に「山口県指定無形文化財萩焼保持者」の認定を受け、あくる年の32年には「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として国から指定されています。
 とくに昭和2年(1927年)に襲名した十代休雪は、萩焼のルーツといわれている高麗茶碗を研究した上で、その和風化に独自の個性を打ち立てました。また、古くから伝わる「藁灰釉」を改良して独特の釉調を生み出しました。世間で「休雪白」と呼ばれて高い評価を受けているのがこれです。
 十代休雪は、昭和42年(1967年)に隠居して休和を名乗り、十一代を弟の節夫に譲りました。昭和45年(1970年)75再で人間国宝に認定され、萩焼の茶陶としての評価を高めたのです。
 昭和47年には十一代三輪休雪、十三代坂田泥華、十四代坂倉新兵衛が「山口県指定無形文化財萩焼保持者」の認定を受け、50年に十一代坂高麗左衛門、57年に十二代田原陶兵衛
、63年に大和保男がそれぞれ独自の作風が認められ、追加認定を受けています。
 ここで忘れてはならないのが、「暁雲シリーズ」で名をなした日本芸術院会員で文化功労者にもなった吉賀大眉の活躍です。東京美術学校(にちの東京芸大)で彫刻を学び日展でデビューし、芸術家として萩焼に挑んだ最初の作家です。彼の影響で当時は日展を志す若手が多く生まれています。しかしそのうちほとんどが、のちに伝統工芸を目指す日本工芸会に転向しています。これも萩焼のもつ宿命的なもののひとつかもしれません。
 いまは、十二代坂倉新兵衛、三輪休和をはじめ、十四代坂倉新兵衛、十一代坂高麗左衛門、十二代田原陶兵衛、吉賀大眉の各氏は故人となってしまいましたが、それに変わる新しい波が萩焼をおもしろくしています。
 兄休和亡き後、昭和58年に人間国宝になった十一代三輪休雪80才を過ぎて益々意気盛ん。伝統を越えて独自の造形による自己の茶陶を確立してきました。息子の龍作、栄造、和彦のいわゆる三輪三兄弟もそれぞれ芸術的主張を展開しています。
 ほかの旧御用窯系では、井戸茶碗に力を注ぐ深川萩の重鎮十三代坂田泥華は別格として、萩の十二代坂高麗左衛門、深川では、十五代坂倉新兵衛、十三代田原陶兵衛、助右衛門窯十四代新庄貞嗣はそれぞれ昭和20年代なかばに生まれた人たちで、いずれも日本工芸会に属しています。
 このほか日本工芸会系の作家として、山口萩焼の代表的存在である日本工芸会理事の大和保男や萩の野坂康起、波多野善蔵、岡田裕など二十人近い正会員を数えることができます。
 一方では、日展系では、吉賀将夫、中村真一などの顔が見え、ほかに日本工芸会を退会して独自の道を歩き始めた兼田昌尚や食器の世界を追求する浜中月村、加藤重美、永地博正などの活躍も目立っています。
 このように日本経済の高度成長によって息を吹き返した萩焼は陶芸ブームの波にも乗り、いまや百花斉放といってもいい状況を呈しています。
 そしていま、現代美術の一部として陶芸が取り上げられる時代になってきたのです。美術としての陶芸は何なのかということはとても重要な問題ですが、よく考えてみると実は複雑な要素をはらんでいて、とても厄介な問題です。その中で萩焼の存在価値を問うとしたら、それはもう、雲をつかむような話になるかもしれません。同時にそれは、これからの萩焼を考える上で、一番肝心なことになるかもしれませんが、ここではこのことはひとまず置いて話を先に進めましょう。

=萩焼と茶の湯の世界=

 茶陶として栄えてきた萩焼にとって、茶の湯の世界との関係は切り離す事のできない重要なものでした。ここでは、歴史の中でどのような関わりあいがあったのかを振り返ってみたいと思います。
 「一楽、二萩、三唐津」という言葉は、日本の茶陶を評価するものとしていつのころからか言い古されてきたものですが、萩焼がいかに茶の湯の世界で重宝されてきたかを物語っています。
 萩焼の起源は、優れた大名茶人であった毛利輝元の庇護のもとに、李朝の陶工によって始められたものです。当時は桃山時代に千利休によって確立された「侘び茶」の隆盛期、
侘び、寂びの世界にかなうものとして「高麗茶碗」がもてはやされた時代でした。従って、高麗茶碗の系譜を引くものとして、萩焼が世間から喜ばれたのも当然のことだといえるでしょう。
 高麗茶碗にならった写しものとしては、見島土などの鉄分の多い土を利用しての粉引手(注1)や三島手(注2)、刷毛目(注3)などや大道土を生かした枇杷色でざんぐりとした土味を生かした井戸手(注4)をはじめ俵手(注5)、御本手(注6)などがあり、
さらには切高台や割高台(注7)などさまざまで高麗茶碗に間違えられるものも数多くあったようです。そして何よりも茶の湯の茶碗として手取りのよさは特徴的なもので、焼き締めが少ない土味の、柔らか味のあるほのぼのとした温かさは独特のものとして多くの茶人から重宝されたものです。
 毛利輝元の茶人としての素養の深さは、天正16年(1588年)に上洛して、千利休をはじめ、今井宗久や津田宗及など、当時の一流茶匠と親交を深めたことからもうかがえます。
とりわけ輝元の従兄弟の毛利秀元の存在は萩藩窯の発展に欠かせないものでした。
 輝元が亡くなったのが寛永2年(1625年)、藩主秀就はすでに31才でしたが、藩政の実権は、秀元にあったということです。
 秀元は毛利元就の四男穂田元清の長子で、当初は輝元の後継者とされてきましたが、輝元の実子秀就の誕生によって支藩の長府藩主になりました。若くして慶長の役のときには現地で茶碗を焼かせて、それを持ち帰ったほどです。
 利休亡き後の大名茶人古田織部と親しく交わり、寛永17年(1640年)には将軍家光をはじめ幕閣諸大名を品川御殿に招待して大茶会を開き、萩焼の茶碗や茶入れ、香合などを多く持ち帰らせたこともあるそうです。また、同じ織部の門下である小堀遠州とも親交を深めていて、遠州作事による江戸城西の丸里の茶室で将軍にお茶を献じたほどの茶人でした。
 このことからも、当時の萩焼が、いかに茶陶への指向が強かったものであるかがうかがえます。一流の茶会などで名器に触れた彼らが藩窯である萩焼で自分の好みのものを作らせたのは当然のことと言えるでしょう。
 だから当時の御用窯では高麗茶碗の井戸や熊谷(注8)や三島風のものなどが焼かれ、なかでも織部風(注9)のものが多いのは古田織部との交流のあった秀元の影響によるものと考えられます。
 織部亡き後は小堀遠州の時代、寛永16年(1639年)には朝鮮の釜山に釜山窯が起こり、日本から見本を送って焼かせた御本茶碗が盛んに輸入されるようになりました。釜山窯の隆盛によって当然萩焼も強い影響を受けるようになり御本手風のものも増えてきました。
 さらに藩命のよって京都で楽焼きの技法を習得した三輪休和によって楽焼の作風も持ち込まれました。すなわち、いままでのものも加わり萩焼も益々多様化してきたのです。
 「萩の七化け」という有名な言葉があります。これは萩の土は浸透性が強く、しかも、焼き締まりが少ないので、使用するに従って茶がしみこみ釉調がいりいりに変化することや、古萩と高麗物との判別が難しくいろいろな焼物に紛れやすいということから生まれた言葉なのですが、長い年月の中で茶陶の名品から多くの茂樹を受けながら醇化され、萩の独特な境地を開拓していったその課程を表現した言葉だとも言われています。
 歴代藩主の中でも名君とうたわれた毛利重就は秀元の子孫で、支藩の長府藩より七代藩主として萩に迎えられました。彼は萩藩に於ける産業開発の基盤を作った人であり、茶道にも精通した人でした。天明3年(1783年)に隠居して、三田尻(今の防府市)の別邸英雲荘に茶室「花月楼」を建てました。これは重就が師事していた江戸千家初代川上不白の設計によるものです。重就は、ここで大いに茶にしたしみながら萩焼に対しても深い関心を持ち続け、手作りの茶碗なども制作して、萩焼にも大きな影響を与えたといわれています。
 この「花月楼」は重就が亡くなってのち萩に移転され、維新後は品川弥二郎のものになりましたが、現在は山口県指定文化財として松陰神社の境内に保存されています。
 明治維新後の萩焼にとって二度に渡る苦難の時代に、表千家碌々斎が二度に渡って萩に来ています。
 これは明治7年から8年にかけて京都に逗留した、萩の旧御用商人である熊谷家六代の五一が、碌々斎に師事して茶道を学び、千家の職家たちとも親しく交際しました。
 明治8年6月に熊谷五一が萩に帰るときに、碌々斎をはじめ楽焼の十一代慶入や袋師の土田友湖をともなって一緒に来たものです。
 碌々斎は9月まで熊谷家に滞在して茶の湯の指導をしたり、窯元で遊んだりしています。慶入はそのときに萩の窯元で茶碗を造ったということです。
 明治15年(1882年)にこんどは土田友湖の弟の湖流を同伴して再来し、熊谷家の離れに1ヶ月ばかり滞在したそうで、萩焼にも多くの影響を与えたことが考えられます。
 これについて表千家機関誌(同門63号4月号・「碌々斎のこと(二)」)に家元の千宗室がこう書いています。
 ・・・(略)・・・今、萩で「熊谷美術館」となっている熊谷家に保存されているものに明治8年、当時熊谷家に碌々斎が招かれ、楽慶入、土田友湖らを伴って萩市に逗留した様子がうかがえます。この逗留は百日にも及ぶ長いもので、往復の日程などを考えますと随分長い間家を空けたことになりますが、実際には生活を立てるのさえ苦しい日々が続き、地方の素封家の厚意に甘んじざるを得なかったのだと思います。このとき慶入が印を持参し茶碗を萩の土で焼き、友湖が袋を仕立てるというようなことで、随行の職家も大変な日々であったことがわかります。
 これらの作品、碌々斎の書、文通等も多く熊谷家に出張しています。・・・(略)・・
 こうして萩焼と表千家との交流も始まったのでした。

次号へ続く(文中敬称略)


《注1》粉引き(こひき)
高麗茶碗のひとつで粉吹ともいう。素地の表面に白色の陶土を掛けて外観を白く見せたもの。これを化粧掛け(エンゴーベ)という。
《注2》三島(みしま)
これも朝鮮で焼かれた一群のやきものでこの茶碗に刻まれた千条文や花文などの文様が、昔三島大社から領布されていた暦に似ていたのでこの三島暦に似た文様には、小さい連珠文を刻印したもの、さらにそれを簡素化して縦に彫り目を入れ横に螺旋状に刻線を見込みより放射線状に入れたものなどがあり、いずれも白泥を埋めて象嵌(ぞうがん)してある。
《注3》刷毛目(はけめ)
朝鮮陶器の手法のひとつで、白絵土を刷毛で一筆に器に塗ったもの。
《注4》井戸茶碗(いどちゃわん)
 井戸茶碗は朝鮮茶碗の王者といわれ古くから珍重されてきた。高麗時代末期の作とさ れ、天正年間(1573〜92年)にはこの茶碗1個が米一万石から五万石と交換されたという。国宝に指定されている大井戸茶碗「喜左衛門」に代表されるが、大井戸の他に、小井戸、青井戸、小貫入、井戸脇などに分類されている。名前の由来には諸説があるが、一、二例をあげると井戸若狭守覚弘が朝鮮出征の時に手を入れて持ち帰ったのでこの名 が付いたという説や、井戸の中から大量に発掘されたから井戸と呼ぶようになったという説、または井戸は葦登のことで慶尚道の地名であるとの説が多い。萩焼の創始者である李勺光・李敬の兄弟もここの出身と伝えられていて、井戸は葦登を通俗的に書き改め たものだろうといわれているが、この地がはたしてどこにあるのか明らかでない。
《注5》俵茶碗(たわらちゃわん)
茶碗の一部に俵の端に見られるような丸紋を象嵌したものなどがあり、三島の模様で あろうといわれている。ロクロ成形した球状のものを縦に割って器にしたものを割り俵 という。おもに萩焼に見られる形である。
《注6》御本(ごほん)
日本から見本を示して朝鮮半島で焼かせて輸入したやきもの。御本の土には淡い紅梅 のような赤味がぽつぽつと点在し、茶人に喜ばれた。この斑点を御本と呼ぶこともある。
《注7》切高台(きりこうだい)割高台(わりこうだい)
 高台の部分を1箇所から3、4箇所欠き割ったもので高麗茶碗に多い。高台の割方に よって割高台・切高台・十字高台などに分けられる。割高台は高台を箆でV字形に割ってあるものをいい、切り高台はそのあと更に凹字形に切り込んだもので切り跡がU字形 になっている。十文字高台は十文字形に切ったもので、切り高台と割高台の十文字がある。起源は運搬する際にいくつか重ねて縄を掛ける為といい伝えられているが確かでは ない。
《注8》熊川(こもがい)
口端の反った丸形のもので高麗茶碗の一種。慶尚南道熊川の産なのでこのように呼ばれている。
《注9》織部焼(おりべやき)
 瀬戸系の陶窯で茶人古田織部の好みによって焼かれたもの。従来の黄瀬戸や志野焼の素朴な装飾方法や形状に飽きたらず、色釉・文様・形状に技工を凝らせて複雑な効果を求めるようになった。形は歪んで異風であり、多角のものが多く奇矯を極めている。

【参考文献】
●山口県埋蔵文化財調査報告131号集「萩焼古窯」〜発掘調査書〜発行/山口県教育委員会・日本工芸会山口支部●日本のやきもの6「萩」吉賀大眉著・発行/淡交社●現職陶器大辞典・加藤陶九郎編・発行/淡交社