第1部:第1回・萩焼の歴史1
文:斉藤武男

=はじめに=

 私が萩焼の世界にかかわりはじめて二十年になろうとしています。それまでも美術が好きだったものですからやきものにも興味はありました。なぜとくに萩焼なのかといいますと、どちらかといえば沈滞したムードの、地方コンプレックスの強い萩のまちで、萩焼こそは世界に誇れる文化だと強く思いはじめたからでした。
 当時、観光プームと陶芸ブームの波に乗って萩を訪れる観光客も増え、おみやげとしての需要も急に高まってきたころでした。そんなわけで窯元も雨後の筍といった感じで急増し、萩焼を売る、いわゆるお土産屋さんも軒を並べるようになってきました。
 ところが、どこを覗いてみても、私の考える萩焼には、ほとんどめぐり合うことができない状態なのです。私の好きな作家の作品などはなかなか見ることはできません。これではせっかく萩焼を見ようと思って遠くの方から出かけられた人たちの期待を裏切ることになってしまいます。
そこで、私の眼で選んだものを見ていただけるギャラリーを造りたいという気持ちが高まり、萩焼との深い付き合いがはしまったというわけです。
 萩焼とは何なのだろう…、というのが今日まで私に、いつもつきまとってきた間題なのです。というのも人によって萩焼にたいする思いが違うからなのです。ピンク色が萩焼の色だと思っている人もいれば、ブルーがかったものを萩焼らしいと言う人もいます。あるいは白い釉がかかったものこそ萩焼だと信じている人もいます。どれも間違いではないのだけれど、それだけが萩焼ではないのです。
 最初に見た萩焼だとか、前から家にあってなじんだものだとかから受けた印象が、そのままその人にとっての萩焼らしさになっているのです。
 それでは萩焼らしさというのはいったい何なのでしょう。現代の陶芸の中で、萩焼とは特別なやきものなのでしょうか。そんなことを私はこれまで考え統けてきました。そしていまだに結論が出ないような気もしています。しかし、私なりにこれまで考えてきたことや,気がついたことなどを、ここでまとめてみたいと思いついたのです。


=萩のまち=

 萩焼の話に人る前に少し萩というまちについてふれてみたいと思います。 萩は本州の西の端、山口県の北部、日本海に面しているまちです。中原中也の詩で有名な長門峡から流れ出た阿武川が、日本海に注ぐ、河口にできた三角州が萩のまちの中心なのです。この阿武川がふたつに分かれ、三角州の東側を流れるのが松本川、西側が橋本川となっています。
 橋本川の河口、三角州の最西北端にこんもりと茂っている山が指月山で、この麓に毛利輝元が城を築きました。この山には、当時の樹木がそのまま原生林となって繁っています。市内どこからでも眺められるので、萩に生まれ、育った人達のシンボル的な存在となっています。
 私達は毎日、四季折々に装いを変えるこの山を眺めながら暮らしてきたのです。ふるさとを離れて生活している人たちのだれもが、久しぶりに萩に帰って指月山を眼にしたときに、萩に帰ってきたのだという実感がわいて、懐かしさで一杯になるといいます。
 萩から山陽道に出る旧街道で、そこを曲がると萩のまちが見えなくなってしまうところに「涙松」という街道松があります。萩を出ていく旅人はこの松の下でふりかえり、遠く指月山を眺めながら別れの哀しさに涙を流し、萩に婦ってきた旅人はなつかしさで嬉し涙を流したということです。
 「帰らじと思いさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな」。
 これは吉田松陰が江戸の獄舎につながれていく途中、ここで萩のまちに別れをつげて詠んだという永別の歌です。松陰も、最後の別れに、はるか指月山を望んで痛恨の涙を流したのでしょう。以前、作家の獅子文六氏が萩を訪れたときの感想で、「維新の歴史の跡を見に来たのだが、こんなにも海や川、山や空が美しいとは…」という意味のことを書いているのをなにかで読んだ記憶がありますが、自然の美しさが私たちの誇れる財産になっています。このように、美しい自然に囲まれて、武家屋敷や古い土塀がいたるところに残り、静かなたたずまいを見せているのが萩のまちなのです。
 「はぎ」という呼び名も、可憐な花の名前とおなじで美しいひびきをもっていますが、この地方には古くから椿がたくさん自生していて、「つばき」という呼び名からいつの間にか「つ」がなくなって「はぎ」と呼ばれるようになったという説もあるくらいです。いまも「椿」や「椿東」などの地名が残るのもそのせいかも知れません。この萩のまちが大きく変わったのは、天下分け目の決戦といわれている「関ヶ原の戦い」以後のことです。
 それまで広島に城をかまえ、中国地区八か国百二十万石を治めていた毛利氏が、豊臣方について関ケ原で戦いに敗れ、領地を長門と周防の二つの国三十六万石にせばめられたうえ、広島を追われ、居城を僻地である萩にせざるをえなかったのです。その頃の萩は、まだ三角州も形成期であって葦の茂った湿地であったということです。
 輝元の萩への入府が慶長九年(1604)、着工して四年たった慶長十三年に五層の天守閣のそびえる萩城が完成したのでした。城の建築と同時に城下町も形成され、それまでの原野に新しいまちができあがったのです。しかし、徳川に対する恨みは強く残り、毎年新年には、藩主の前で徳川を討つ機会をうかがう秘密の儀式がしきたりとして、代々続けられていたということです。長州藩士は寝るときに足を東に向けて寝ていたといわれているくらいです。その怒りがもととなって、明治維新への大きな原動力になったのです。日本の近世の城下町は、明治以後の近代日本の発展によって、それぞれの地方の中核となる近代都市としてその姿を変えていきました。萩はその中でただひとつとり残されたまちなのです。幕未の志士達は、あたらしい明治政府の中枢となり、志を持つ人達はみな都会に出て政界や財界の要人になり、故郷をかえりみることも少なかったようです。
 いまでこそ、萩は古い町並みを良く保存していると言われていますが、当時は変えたくても、変えるだけの経済力がなかったというのが正直なところでしょう。新しくしようにも、出来るだけの能力もなく時代にとり残されて、ひっそりと耐え忍んでいたのです。だから近世の城下町の形をもっともよく残しているまちとして現在では貴重な存在になっているのです。時代の移り変わりの中で、なにが幸いするかわからないものです。
 このまちの名を、高めているものに萩焼があります。四百年近い歴史は、萩焼にたずさわってきた人たちにとって、時代の流れに添っての苦難と繁栄の繰り返しでした。その長い歴史の中で、積み上げられたものが伝統として残り、人々に親しまれているのです。しかし、現代のやきものは、ただ古い時代の踏襲だけでは意味のないものになっているのです。やきものが、単なるうつわや道具としてだけでなく、美術としての広がりを持ってきたからなのです。このことはとても大切なことなので、また後でくわしく述べたいと思います。
 萩焼の現状も歴史と伝統から多くのことを学びながら、現代に生きる作家達の活躍によって注目を集めるようになってきました。単に茶陶の世界だけにとどまらず、現代美術の世界にまで翼を広げてきています。いま萩焼は、これまでにない最盛期を迎えたと言っても言い過ぎではないと思います。
 この萩焼について語るうえで、歴史を避けて通ることは考えられません。ここでまず萩焼の歴史について述べてみたいと思います。

萩焼の起こり

 十六世紀のおわり、豊臣秀吉による俗に「やきもの戦争」といわれている文禄,慶長の役(1592〜1598)が起こりました。このころ、桃山時代に千利休によって高められた「佗び茶」が盛んになり、高麗,李朝のやきものが、とても重宝されている時代だったのです。そこで秀吉は、腕の確かな職人達を連れて帰るように戦場におもむく大名達に命令したのでした。それによって九州の上野焼、高取焼、薩摩焼などをはじめとして、西日本一帯に李朝の陶工によって多くの窯が起こされました。そのとき、総師として参加した毛利輝元が連れ帰った李朝の陶工季勺光と季敬の兄弟によって萩焼が生まれたということです。
 もともと萩の川辺には質の良い陶土にも恵まれていて、古代のやきものである弥生土器や須恵器などが数多く発掘されています。そういう環境の中で、輝元をはじめ、代々毛利氏の一族はすぐれた茶人でもあり、やきものの育成に力を入れたものと考えられます。
 季勺光と李敬については、一説によると、すぐれた技術をもっていた李勺光は、秀吉の命令で大阪へ連れてこられて輝元に預けられたということです。その後慶長の役でこんどは弟の李敬を連れて帰ったということが言われています。最近の説では季勺光と季敬は兄弟ではなかったという説もうまれていますが、いずれにしても確かな記録は残ってはいません。
 慶長九年(1604)、広島を追われて萩に入府した輝元とともに季勺光の一族も広島から萩に移りました。季勺光は松本の中之倉に屋敷を拝領し鼓嶽の山林を薪山として使うことを許されたということです。こうして御用焼物所ができました。中之倉は荻市内から松本川を渡り松陰神社から東光寺を経て東に入った山あいで、李敬の流れをくむ坂窯はいまもこの地で窯煙を上げています。

松本焼の始まり

 中之倉の御用焼物所でうまれたやきものは松本焼と呼ばれていて、現在の萩焼という呼び名は当時は使われていませんでした。萩焼と呼ばれるようになったのは、明治以後博覧会などに各地のやきものと並んで出品されるようになってからのことなのです。
 この松本焼が、いつ始まったものなのか、その年代ははっきりしていません。当時の様子は、それよりも時代の下がった江戸中期の古文書などから、のちの学者の推測したものによるほかはないようです。ここでは平成二年に日本工芸会山口支部から出た発掘調査報告書「萩焼古窯」の中の河野良輔氏(山口県立美術館館長)の論文を参考にして話を進めてみたいと思います。
 江戸時代中期の萩藩の記録である「譜録」に、当時、萩松本の坂、三輪、佐伯と大津郡深川の山村の四家が萩藩に焼物師として召し抱えられていたと書かれています。これらの焼物師たちが、それぞれ家歴を書いて藩に提出した「畧系並伝書」などの記録によって河野氏は次のように考祭しています。
 李勺光の五代目の孫にあたる山村源次郎光長が、明和四年(1767)十二月に書いた「畧系伝記御判物御奉書写」と、明和二年(1765)三月に坂家五代の助八忠逵が提出した「畧系伝記御判物御奉書写」によると、朝鮮国の李勺光は、代々高麓焼物細工を続けてきた家系で、家伝の技術に優れていたので、秀吉公に召し上げられて日本にやってきました。
 はじめは大阪に住んでいましたが、やがて毛利輝元に預けられ、輝元の萩入府以来、松本中之倉で薪山として鼓ケ嶽を与えられてこの山を唐人山と呼ぶようになりました。その後結婚して兄の子が誕生。この子が山村新兵衛光政です。また、季勺光の弟である季敬も輝元に呼ばれて日本に来て、はじめは坂本助八と名乗っていましたが、やがて坂と改名して、兄の季勺光と共に中之倉の窯薪山御用焼物所で作陶に従事していました。
 山村新兵衛光政は父の季勺光の死後、叔父の坂助八に育てられ、成人して「高麗焼物細工御茶入之家」として父と同じ処遇で召し抱えられました。寛永二年(1625)四月二日に萩藩初代藩主毛利秀就より「作之允」に任命され「窯薪山御用焼物所惣都合」を命じられました。つまり御用窯の陶工たちを統率する代表者になったのです。彼はその後仏門に入り松庵を号するようになりました。
 坂助八も同じ年の十一月二十二日に「高麗左衛門」に任命されています。このときの藩主秀就からの名替の御判物はいまも坂家に伝わり、毎年新年にはこの御判物を床にかけ、藩主よりいただいた毛利家の家紋いりの紋付きを着てロクロをひくのが坂家のしきたりになっています。
 御用焼物師についての最も古い記録は、寛永年間の藩上の奉禄を記録した「毛利家文庫給禄分限帳」に出て来たのが最初で、それ以前のものは残っていません。このことから、初期の慶長,元和の約二十年の間は、削封にともなう財政整理をはじめ、藩政たてなおしの大変な時期でもあって、寛永年間になってようやく藩政も軌道に乗り、藩窯としての体制も確立されていったのではないかと河野氏は推測されています。
 さて、惣都合として御用焼物所を統率していた山村作之允(新兵衛光政)は、寛永十八年(1641)十一月、城下の法花寺で、藩士の渡邊四郎右衛門を切り殺すという大事件を起こしてしまいました。ところが藩庁はこれにたいして「おかまいなし」という寛大な処理で済ませています。たぶん、異国人であるということや、御用窯の惣都合としての身分が配慮されたものでしょう。仏門に入って松庵と号したのはそのためではなかったかと考えられます。しかし、十七年後、明暦四年(1658)二月におなじ法花寺の門前で、渡邊四郎右衛門の遺児吉之允と四郎右衛門の弟の宗庵によって、仇討ちにあってしまいました。息子の平四郎が松庵の後を継ぎ山村家の地位は残されましたが、御用窯の惣都合としての役目はやがて坂家に移行していくことになったのです。

深川焼の始まり

 仏門に入った山村松庵は古萩に屋敷を拝領し、弟子の山崎平左衛門と蔵崎五郎左衛門の二人を付け人としてそこに住んでいました。このうちの山崎平左衛門が、藩に独立して窯を開きたいと願い出ました。
 御用窯の技法が他国に流出するのをおそれた藩は、これまでの扶持を増やして、城下に近い阿武郡川上村惣之瀬に間窯させ山村家三代の平四郎に監督をさせています。しかしこの窯は平左衛門の一代かぎりで絶えてしまったということです。いまは窯跡と思える場所からわずかに発据された陶片によって、当時を思い起こすほかはありません。
 平左衛門の申し出に統いて、松庵のもうひとりの弟子である蔵崎五郎左衛門も独立開窯の願いを出しました。藩の許しを得て、薪山として大津郡深川村ふかわ三ノ瀬の大寧寺の山林を与えられ、同族の勘兵衛とともに移住したのは承応2年のことでした。
 人夫として、地元の農民たちを提供するなど、藩も横極的に援助しましたが、工事は以外に難行したようです。結局、松本の御用焼物所に残っていた赤川助左衛門、助右衛門一族も移住しての協力もあって、明暦三年(1657)になって、ようやく完成したということです。
 そこで松庵の息子の平四郎光俊が、三ノ瀬焼物所惣都合〆に任命され、父松庵と同じ待遇で家屋敷も与えられて三ノ瀬に移住してきました。このように萩の御用窯での山村家の弟子たちのほとんどが三ノ瀬に移ったのでした。  明暦三年四月七日、惣都合〆の山村平四郎光俊は、弟子たちが他国へ出ないという誓約書を藩に提出して、深川御用窯としての三ノ瀬焼物所がスタートしました。松本の御用焼物所で生まれたやきものが松本焼と呼ばれたように、ここでできたものは深川焼、あるいは三ノ瀬焼と呼ばれるようになりました。
 この深川御用窯と松本御用窯とは、同じように藩の御蔵元の直轄だったのですが、深川では最初から自家営業としての自分焼を認められていたという違いがあります。いわゆる半官半民的な性格の窯だったのです。
 それから約四十年たった元禄六年(1693)には、それまでの御蔵元の直轄支配をはなれて、地方庄屋の支配に変わり、民窯としての性格が強くなっていきました。
 これは、そのころ松本に新しく三輪窯、佐伯窯という御用窯がうまれ、城下から遠く離れた三ノ瀬では、なにかと不便でもあり、藩主の御用は松本にある坂、三輪、佐伯の三つの窯で十分まかなえるようになったからだと思われます。また藩の産業振興の意味でも、三ノ瀬の窯を民窯的な経営方針にしたほうが得策だと考えられたのかも知れません。しかし三ノ瀬焼物所惣都合〆の山村家だけはこれまで通り御細工人の身分と処遇を受け続けていました。

=三輪窯・佐伯窯の登場と出雲楽山焼=

 17世紀後半に入って、二代藩主綱広のときに、萩城下の郊外にある前小畑の小丸山で窯を開いていた三輪忠兵衛利定と無田ケ原で制作していた佐伯半六実清が、新しく御雇細工人として召し抱えられました。寛永三年(1663)のことでした。山村家とその弟子たちの一族が三ノ瀬に移任して、松本の御用窯は一時さみしくなっていましたが、これでまた活気が出てきました。
 しかし天和二年(1682)に佐伯半六が亡くなり、あとつぎがまだ小さかったために三輪家が佐伯家の窯を受け継ぐことになりました。そこで初代休雪(忠兵衛利定)は佐伯家のあった無田ケ原に移り、その後はそこで藩の御用をつとめるようになり、現在三輪窯のある場所がそうなのです。
 初代休雪はとりわけすぐれた技術を持っていたということです。元禄十三年(1700)には藩主の命令で京都で楽一入について楽焼の勉強もしています。それまで李朝の影響の強かった初期萩焼ですが、和風を取り入れた新しいスタイルも生まれるようになりました。
 一方佐伯家では、三ノ瀬の赤川助右衛門の孫、赤川四郎右衛門の次男、彦右衛門がいったん坂家の養子になっていましたが佐伯家の三代をつぎました。その後、延享二年(1745)に佐伯家の祖先の林に改めて、林半六という名前で名工として名を残しています。
 延宝五年(1677)には出雲松江藩の御用窯楽山焼が起こりました。松江藩二代藩主松平綱隆の要望に答えて、萩藩二代藩主毛利綱廣が山村平四郎の弟子と考えられる倉崎権兵衛と二人の陶工を松江に派遺して生まれたものです。そのときには陶工だけでなく、大量の陶土や陶石なども送られています。楽山焼も萩焼の流れをくんで朝鮮写しのやきものを造る窯なのです。
 このほか、萩の支藩である長府藩の松風山焼も赤川助右衛門の派遺をうけ、萩藩の永代家老益田家の茶陶御用をつとめた阿武郡須佐村の須佐焼や支藩の徳山藩もまた萩の御用窯から焼物師を招いて技術を受け継いでいます。

小畑焼の出現

 萩城下の郊外にある小畑地区は良質な陶土に恵まれていて古くからやきものを造っていた一帯です。はじめは松本御用焼物所では初代坂高麗左衛門はここの陶土を使っていましたが、のちには小郡地方の大道から採れる大道土を使うようこなりました。
 文政七年に御用商人山城屋文蔵・孫四郎父子が残した「浦小畑陶器窯御取建之事」という覚書によると、それまで松本の御用窯である坂・三輪・佐伯(林)の三家ではお茶具のには大道土を使い、花器や置物などの通例の道具には小畑土を使っていました。
 しかし小畑にこのような良い土がありながら、日常の生活雑器の生産は少なく、ほとんどが京都や信楽などから輪入していたのです。それでは大変もったいないということで、山城屋が藩の承諾を得て、そのころ隠居をしていた御用焼物師の六代林半六を雇い入れて小畑焼がはじまりました。文化11年(1814)のことです。京都から絵付けなどの五人の職人を呼んで雑器を焼いていましたが、職人の統率など難しい間題も多く、一年半後の文化十三年(1815)からは、藩の御産物方の直轄になりました。
 この年には、三ノ瀬から蔵崎五郎左衛門、伝左衛門のふたりが小畑に移っています。
 ところが林半六は、文化十四年(1817)に息子の良平の出奔の罪により、すべてを没収されて林家は廃絶してしまったのです。
 やがて文政六年(1813)には磁器が造られはじめ、七つの磁器窯ができました。絵付け職人には京都や肥前からの職人が多く、それらの職人の中で、とくに吉田道亭が名工として作品を残しています。
 茶陶を中心とした松本御用窯にたいして、白磁の日用雑器を生産する小畑焼の出現は萩焼の歴史の中でも画期的なことでしたが、江戸末期には衰退してしまいました。ところが維新後一度にわかに復興のきざしをみせ、晴雲山岡田窯や天寵山兼田窯はとりわけ活況をみせて、兼田窯では明治十年ごろには日用磁器を朝鮮に輪出していたほどでした。
 しかし、これらの窯も、明治から大正、昭和へと時代が移るにつれて流通機能も発達し、有田や瀬戸の近代的な大量生産の製品との競争に勝てず、萩焼の生産へと転向して、伝統の小畑磁器も衰退して絶えてしまいました。

(次号へつづく)


[参考文献]
●山口県埋蔵文化財調査報告第131集「萩焼古窯」〜発堀調査報告書〜発行/山口県教育委員会・日本工芸会山口支部●日本のやきもの6「萩」吉賀大眉著・発行/淡交社