ベラスケスが晩年に描いた「ラスメニーナス」という絵がある。高さと幅が四メートルほどの大きな絵で、中央に、女官たちに囲まれた幼い王女が描かれている。しかし、よく見ていくと、そこに仕組まれた眼差しの迷宮に誘い込まれることになる。まず、こちらを向いて微笑んでいる王女が見ているのは、描かれていない両親である王と后であることに気付く。暗い背景の奥の壁に掛けられた小さな鏡に、王と后の姿がかすかに映り込んでいるからだ。つまり、絵を見ている自分は、王と后の場所に立って、この絵を、あるいは現実の王女を見ていることになる。さらによく見ていくと、絵の左手の暗闇の中に、大きなキャンバスを立て、絵を描いているベラスケス自身がこちらを向いている。王と后を描いているのだろう。プラド美術館は、この絵に対して粋な計らいをしている。絵を見る我々の後ろ、絵と向かい合う位置に、絵と同じ額縁の中に鏡を入れたものが掛けてある。この鏡を見ると、見ている自分が絵の中に入り込んでしまう。そこに、無数の眼差しの交差、眼差しの倒錯、見る側と見られる側の現実とも虚構とも付かぬ不安定な関係性、といったような不思議な構図が見えてくる。
眼差しの倒錯は、様々なことを浮かび上がらせる。虚と現実とが交錯し、見る側と見られる側の関係を逆転させ、曖昧にし、しまいにはそれを宙吊りのまま放置し、その関係の意味を根本から問い直させる。今回、試みようとしたことは、こうした眼差しの倒錯を通して、慣習の中に埋没してしまった茶室空間そのものを問い直すことにある。
和室、とりわけ茶室は、室町以来四百年近くの長い時間を経て今日に至っている。初めは技術として切瑳琢磨する時期があり、やがて形式として完成され、燭熟し、停滞し、既成の事実として、誰もその有りように疑いを挟まない、社会的な最大公約数としての様式ができ上がった。あまりに多くの人の手を経、手垢にまみれ、身近にあるがために、誰もが無警戒に受け入れる慣習化された様式だと言える。これを、堕落と見ることもできる。
今回、萩の美術館内にある茶室に手を加えて、何かを表現する機会を与えていただいた。まず考えたのが、様式化された茶室の中にすっかり埋もれてしまった純粋幾何学や抽象性を、眼差しの倒錯を通して浮き立たせてみよう、ということだった。茶室に出来るだけ手を加えず、ガラスに映り込む眼差しの倒錯を手掛かりに、幾何学性だけが浮き立ってくる、そんなしつらえを考えた。
倒錯の基点となるのは、床の間に掛けたガウディのカサ・カルベットのドア覗き穴の金具だ。これが、幾重にも反射しながら繰り返される虚の幾何学空間の中に浮かび上がる。垂直と水平の直行空間の幾何学は、二十世紀の近代建築を支配する基本的な原理だ。それに対して、放物線を基調とし、有機的な曲線を駆使したガウディの造形は、近代とは対立する価値だ。これを、二十世紀と十九世紀との対比と見ることもできる。また、浮かび上がらせる幾何学的な純粋性が書院的な価値で、そこからズレるガウディを数寄屋的な価値に引き寄せて見立てることもできる。覗き穴のオブジエをこちらから覗き込むことから、見る側と見られる側の関係の倒錯、を思い浮かべていただいてもよい。題名にある「透ける眼差し」を、ガラスから透けて見える元の茶室の様相と捉え、「数寄の眼差し」と解釈していただくことも可能だ。
こう書いてくると、茶室に仕掛けをした私自身も、現実の作品から逆照射される言葉と解釈の罠に、気付かぬうちに絡め取られていることに気付く。覗き穴の向こうからこちらを見ているのは、誰か…。私、あなた、あるいは誰でもない、世紀末の眼差し。
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